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二日続けてコンサートに足を運んだのは学生時代以来だった。場所は白井市。そういう町が千葉県にある事すら最近知ったばかりだったが、思いのほか近くて、北総開発鉄道(いまは北総鉄道と改名されている)の威力を知る。


衣装はこの季節に合わせました、と自らマイクを取って最初に挨拶したパク・キュヒ(朴葵姫)は、サクラ色のふわふわとしたドレスに身を包んでいて、可愛らしさに溢れている。


小柄な彼女が放つ音楽はトレモロの極致。桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちるようにその音は華やかでかつ少し哀しげ。演奏に一区切りつくたびに、パクさんは解説をしてくれる。その少し稚拙な表現が、却って愛嬌がある。


いろいろな作曲家の曲のなかで、やはり心に沁みるのはスカルラッティのソナタ。


ナポリに生まれ教会付き作曲家兼オルガニストだった彼は、あるときスペインに移り住み、後半生をそこで過ごしたそう。作られた数々のチェンバロ曲は、ギターで弾かれることでその骨格を露わにして、哀愁をそそる。


■曲目

・K.カラハン 「リバー・ベッド」(スリー・リバー・モメンツの第2楽章)

・F.ソル 「グラン・ソロ」作品14

・D.スカルラッティ ソナタ K.32, K.322, K.178, K.390

・A.パリオス 」森に夢見る」

F.タレガ 「ラクリマ」「アルハンブラの思い出」

・E.グラナドス 「詩的ワルツ」

・M.トローバ 「ソナチネ」R.ディアンス 「リブラ・ソナチネ」第3楽章

・アンコール: 「禁じられた遊び」

■日時

2019.3.30(土)14-16時 白井市文化会館 なし坊ホール(大ホール)



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by k_hankichi | 2019-03-31 16:51 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
久しぶりに聴く室内楽コンサートは、ロイスダール弦楽四重奏団(Ruysdael Kwartet)によるものだった。於: 王子ホール。演奏者のそれぞれは、オランダの音楽院の教授や管弦楽団の要職を務めている。

素晴らしかったのは、シューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調D956。ガブリエル・リプキンを加えてのもの。

この音楽は、彼の人生の日々を振り返り懐かしみ、そして踊り楽しんだことや、悩み苦しんだこと、そして歓喜の渦にむけての足跡を肯定していく。

最終楽章は、ベートーヴェンの交響曲第5番や第9番の旋律の数々をどうしてか思い起こさせ、思わず笑みが零れる。

優しさに満ちた楽興の時。安堵の想いに溢れた年度末だ。

■演目
モーツァルト: 弦楽四重奏曲 第17番変ロ長調K458『狩』
アンドリーセン: ミゼレーレ
シューベルト: 弦楽五重奏曲ハ長調D956
アンコール・・・シューベルト: 「セレナーデ」弦楽五重奏版


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by k_hankichi | 2019-03-30 11:13 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

ぶんぶく茶釜と美術館

館林といえば、タヌキという印象があって、しかしそんなところに美術館があるなんて、先週の北千住の魔界に行くまでは全く知らなかった。

そこで頂いたのが、群馬県立館林美術館の『エキゾチック × モダン アール・デコと異境への眼差し』展覧会チケット。寒さがぶり返したなか、足を運んだ。

降り立ったのは東武伊勢崎線の無人駅。これには驚いたが、そこから歩いて歩いてたどり着いたところに、素晴らしいデザインの美術館が広大な敷地囲まれてあって、これにもまた驚いた。

装飾やポスター、ガラスや陶芸が中心だったが、少数厳選の、しっとりと落ち着いた品のある展示内容だった。

名だたる陶芸家たちの作品も勿論良かったが、僕は国立セーブル製陶所の、蓋つき壺「ラパン No.21」という作品に惚れた。ここに掲載あり。→http://www.gmat.pref.gunma.jp/ex/exnow.html

色のグラデーションたるや半端ない。

久しぶりに美しいものに触れて、ようやく気持ちが休まった。

※追伸: 帰りに館林駅前で食べた、「花山うどん」のぶっかけ温玉うどん、というやつが滅法美味くて、美だけでなく味でも徳をした気分だった。


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by k_hankichi | 2019-03-29 16:23 | 美術 | Trackback | Comments(4)

タカーチ弦楽四重奏団とマルカンドレ・アムランによるフランクのピアノ五重奏曲の音盤があることを知り、思わず買い求めた。甘美さと峻厳さがとても巧みに織り交ぜられ、緩急も自在。素晴らしい演奏だ。


第一楽章ではビオラやチェロの音色がとても美しいことに初めて気づく。


第二楽章は、仄暗い淵の底から、微かな希求とともに、ルドンの花のようなイメージが次々に浮かんでは消える夢のような趣きだ。抑制された優しさが際立つ。アムランのピアノもそういう趣き。


第三楽章は、命の源を得て、きらきらと溌剌と弾けるが、音色は少しくぐもっていて明るさと渋さがマッチしている。フランク好きの僕にはたまらない。


もう一曲は、ドビュッシーの弦楽四重奏曲。これもとてもはつらつとしていてとても心地よい。


春の暖かい日にはフランス音楽がよく似合う。


■収録: 2015.5.22-25, Wyastone Concert Hall, Monmouth, Wales, Uk

■音盤: Hyperion CDA68061



■ドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』が使われたジャケット。見つめられてハッとしてどきどきする。

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by k_hankichi | 2019-03-28 08:49 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

ブログ知人の紹介で、思わず深く聴き始めて、これまた自分に合う音盤だなあ、と思った。


ジャズと近代音楽のコラボレーションに不安を持つ者がいるだろうけれど、それがまるで、“♬何の迷いもなくこの一枚を選んで”、という感じでぴったりと寄り添ってくる。


CDジャケットは、爽やかなそよ風が吹き戯れる広い草原での演奏風景。音盤の雰囲気をよく醸し出している。


自由に気持ちの趣くように流れるインプロヴィセイションと、サティとドビュッシーのフランス音楽。そこにジョージ・ガーシュイン、ウィリアム・ボルコム、パーシー・グレインシャーが入り混じり、えも言えぬ気持ちになる。


ジャズと近代音楽は生きている時代感覚が同じ(時間を刻むテンポも同じ)なのだ、という仮説について、なにか書けるかもしれない。


■曲目

・インプロヴィセイション~8曲

・エリック・サティ

「グノシェンヌ 第1番~第6番」

「嫌らしい気取り屋の3つのワルツ」

「最後から2番目の思想 (ドビュッシーへの牧歌、デュカへの朝の歌、ルーセルへの瞑想)」

「5つの夜想曲」から第2曲「単純に」、第3曲「やや動きをもって」

・ウィリアム・ボルコム

「グレイスフル・ゴースト」

・パーシー・グレインシャー

「デリー地方のアイルランド民謡」(ダニー・ボーイ)

・ジョージ・ガーシュイン

「4度のノヴェレッテ」

「三つの前奏曲」から第2曲

「メリー・アンドリュー」

「スリークォーター・ブルース」

「前奏曲「スリープレス・ナイト」」

「前奏曲「断片」」

・クロード・アシル・ドビュッシー

「前奏曲第2巻」から第5曲 「ヒースの荒野」

■収録: 2018.8.16, 神奈川アートホール

■音盤: Sargent Major,, B07MVWPFQJ


https://youtu.be/4PtyoVZPKY8



■曲のイメージ。
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by k_hankichi | 2019-03-27 06:43 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)

焦燥と不安のななめ読み

どうしてそんなに早く本を読めるのか、と中学時代に友人から言われて、「ななめ読みさ」と返したらいたく感心されたことを思い出した。

あのころは学校の行き帰りの電車のなかで、コナン・ドイルや司馬遼太郎、井上靖、星新一、北杜夫などを次から次へと読み散らかしていて、今から思えば、斜め読みがあったりしたことを申し訳なく思う。

そんななか、「凄くななめよみ」していまったのは『日本の同時代小説』(斎藤美奈子、岩波新書)。べらぼうに沢山の作家たちと小説が紹介されていくので、だんだんと頭が飽和状態になる。

次から次へと詠んだことがない本がでてくるから、恍惚と不安二つわれにあり、ならぬ、焦燥と不安二つわれにあり、状態に陥る。なるほどうんうん、と頭で分かろうとしても読めていないから途方もない無力感に陥っていく。

もう一度、一年生からやり直し、と命じられて、一匹の犬がすごすごと野原に戻っていく。そういう自分だった。


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by k_hankichi | 2019-03-26 08:13 | | Trackback | Comments(2)
「千住かあ、松尾芭蕉がそこで句を詠んで、そしてそこから舟に乗って川を渡り江戸を後にしたんだね」
と友人が感慨していたから、実はね、という話をした。

「昔は、北千住の北側の荒川は無かったんだ。芭蕉は北千住から先、地続きを単に歩いていっただけだ。」

矢立初めの句、「行く春や鳥啼 魚の目に涙」は、深川から隅田川を舟に乗って北上し、いまの南千住のあたりで舟から降りて読んだ句。そこからようやく歩き始めたのだ。

知っている人も多いとは思うが今の隅田川こそが昔の荒川。それがよく氾濫してしまって人々を困らせていた。1913年(大正2年)から18年掛けて掘削して1930年(昭和5年)に荒川放水路が完成した。

放水路は1960年(昭和40年)にようやく荒川と改名され、北区の岩渕水門から下流がわのそれまでの荒川は、隅田川と改名された。

むかしの地図を眺めると、なんだか途方も無い感覚に捉われる。あんなに広い川幅の放水路をよくぞ作ったものだ。明治大正時代の英断は驚嘆に値する。


■『東京古道探訪』(荻窪圭)より。右下端が北千住駅。
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by k_hankichi | 2019-03-25 06:55 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)

薦めには従うものだと脱帽した一枚(沼辺さんに感謝)。シャルル・ミュンシュがフランス国立放送交響楽団と共に来日した1966年の公演からフランス音楽を選んだものだった。


一番目の曲は、ドビュッシーの交響詩『海』。この作曲家が好きな僕でも、実はこの曲は苦手で、そのしまりのなさがどうにも馴染まなかった(ピエール・ブーレーズ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団と、ジャン・マルティノン/O.R.T.F.のものしか持っていなかったので)。


ところがだ。ミュンシュの手に掛かると、なんとまあ緩急自在なことか。「海の夜明けから真昼まで」はある程度予見したゆったりとした流れが続く。しかしこの海は朝から元気が良い。あちこちから快活な呼び声が聞こえてくる。


オーボエの音色が聞こえ始めると、波と波はエネルギーを得て前のめりなってゆく。急くこと急くこと。波はぶつかり合い弾け、砕ける波はバチンバチンと音を立てる。


「波の戯れ」は、いろいろな場所で波たちがいたずらし、笑ったり駆けっこしたり、昔のことを想いだしたり。かといえばいきなり大きな波がバァンとぶつかってきたり。走馬灯のような海なのだ。「風と波との対話」に入るとさらにダイナミズムは爆発し、これはもはや岡本太郎の絵と語りのようだ。


こんなふうな演奏があると知っていれば、もっと真面目にいろいろと聴いていた。


そしてフォーレ。組曲『ペレアスとメリザンド』だ。「前奏曲」はサパサパとしている。もたれかかってくる甘さが無い。心地よい。「糸を紡ぐ女」は、農村の道に面した家の窓から、乾いた春の日差しが差し込む。「シシリエンヌ」は、これも媚びの一切ない開放感と健康さ。「メリザンドの死」は沈痛な気持ちを淡々と知らしめ、そして後半には過去の素晴らしい日々を蘇らせたかと思うと「明るさは滅びの姿であろうか」のようにしずしずと終わらしめる。


ルーセルの交響曲を聴くのは実はこれが初めて。第3番ト短調。おお、これはオネゲルの交響曲のような勢い。度肝を抜くような、ノイエザハリッヒカイトな第1楽章、アレグロ・ヴイーヴォ。


流れるようなハーモニックな出だしで始まった第2楽章のアダージョは「一抹の不安が押し寄せるなかでの苦悩」とでも言うべきシーンがこれでもかこれでもかと畳み掛け、オディロン・ルドンの絵の幾つかが右に左に行き来する(感じ)。そして愛の葛藤の相克のなかで生き別れる白黒アメリカ映画のよう。


第3楽章のヴィヴァーチェはミュンシュが冒頭から唸る。ストラヴィンスキーのロシア詣、という言葉が頭に浮かぶ。


最終楽章のアレグロ・コン・スピートは、もはやショスタコーヴィッチ。第5番の最終楽章、そしてそこから遡る第3楽章を彷彿させる血湧き肉躍るショウだ。指揮者の咆哮と応えるオケの咆哮がぶつかり砕け散る。


嗚呼、なんという音盤を手にしてしまったのだ。これからさらにミュンシュを聴きたくなることこの上ない。



■収録: 1966.10.8(ドビュッシー), 10.20(フォーレ、ルーセル)、東京文化会館

■音盤: キングインターナショナル KKC2174



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by k_hankichi | 2019-03-24 19:02 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(0)

魔界のなかで翻弄されて

魔界というものがこの世にあることは知っていたけれど、それは上海の浦東の路地裏であるとかシカゴの倉庫街であるとか、良からぬものを売り買いするバンコクの川沿いであるとかだと思っていた。

それがとても身近な場所にあることを知ったのは、その路地裏の店に引き込まれてからだった。

一杯の酒とおつまみを手にしながら、店主の機関銃のようなトークを浴びていく。主題は文化・歴史から、芸能音楽まで幅広く、寄せては返す波のごとく際限がない。

日本画が出てきたかと思えば、西洋のポップカルチャーデザインに話が飛びその画集を手渡されたりもする。

著名な画家やイラストレーターによる原画だったり、アニメーションのセル画であったりもする。

テレビドラマの脚本を渡されたあとは、出演していた俳優の昔のプロマイドまででてくる。

いつしか時代は昭和40年代から50年初期に駆け戻り、レコードプレイヤーではジャパニーズ・ポップスのB面縛りになる。

ぐるぐると頭を回されて揉みくちゃにされて、翻弄の渦のなかから出てきたときには、迷宮としか思えないような路地があって、その先で放たれたときには既に全ての理念だとか感覚が抜けさった抜け殻のようなものがあった。

それが自分の身体だったのだと知ったのはようやく今頃で、撮影した写真の何枚かを眺めているだけで、記憶の映像はガリガリ博士の映画のなかで翻弄されているようなものに変わっていった。

少しづつでも恢復していきたいと念じている。

■昭和サロン『小柳』にて(北千住)
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by k_hankichi | 2019-03-23 18:09 | 街角・風物 | Trackback | Comments(3)

難しく、虚しい小説

難しい小説だった。第一章、第二章と進むにつれて難度が上がる。最終のは70年後の未来だ。もはや觀念するしかない。

『橋を渡る』(吉田修一、文春文庫)。

週刊誌での連載だから単行本や小説にしても読んでくれるだろう、というような考え方に思えて、なんだか悲しく感じた。


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by k_hankichi | 2019-03-22 17:19 | | Trackback | Comments(0)

音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です


by はんきち