音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

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小池昌代の小説『たまもの』(講談社)を読んだ。捉えどころのない、夢遊的な、しかし、意識のある下で、いくつかの出来事がしっかりと進んでいる、そういう感じの小説だった。

学生時代の男友達が付き合っていた女との間にできた子供・山尾を、あろうことか引き受けることになり、仕事をしながらも、その子供を育ていく。その過程で、さまざまな男たちと出逢う。昔の知り合いだったりもするし、ひょんなきっかけでそのような進展になっていったりする。

主題は女からみた男であり、しかし血の繋がっていない子供が、そこにのめり込むことに歯止めをかけている。アンバランスのバランス。

“子供っていつも、いきなり、とても、抽象的なことをいう。ただ、きらきらしたものって言われても、目的も何も知らされていないわけだし、例示もないわけだから、言われたほうは困るよ。物事を整理し、時間軸に沿って、自分以外の者に説明するという能力がないんだ。やつらには時間というものがながれてないんじゃないか。いつだって、「今」しかないので、過去にこんなことがあり、それを踏まえて今があり、だから、未来のために、いま、何をすべきかというふうに、一連の流れのなかで、物事を考えられない。いつ時間の区切りがわたしのなかに生まれたのだろう。思い出せないけれど、そのとき、わたしは大人になったのかもしれない。”

そういう表現があって、まさにそうだよなあと思った。ちょうど先ごろに観た映画『6才のボクが、大人になるまで。』のことを想いだした。

子供がいるからこそ、狂わしい世界に落ち込まない。まさにそういう意味での「たまもの」ということなのか。
 

たまもの

小池 昌代 / 講談社

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by k_hankichi | 2015-06-10 06:48 | | Trackback | Comments(3)
今年の米国アカデミー賞は『バードマン』を賞賛するぐらいだから、審査員のことを疑っていた。そして、そのわきで二番手に評価された映画のことも、題名からして遠巻きにしていた。『6才のボクが、大人になるまで。』・・・何とも人を食っている。何を考えているんだ。

家の近くの二番館(この時期、三番館かもしれない)でそれがかかると知り、ちょっと時間があったので足を向け、期待せずに観始めたところで、原題が“Boyhood”であると知った。おお、こりゃ、6才のボクが・・・ということを語ろうとしているわけじゃあないのか・・・。背筋を正してスクリーンに目を注ぎ始めた。監督の名前が出てくる。リチャード・リンクレイター。

な、なにぃっ!!!!・・・僕はますます驚いた。僕の生涯ベスト2に輝く映画作品の監督だった。自分の無知さ加減に我ながら呆れた。バカバカバカ。

監督は、リチャード・リンクレイター。『ビフォア・サンライズ』(1995年)、『ビフォア・サンセット』(2004年)、『ビフォア・ミッドナイト』(2013年)を生み出した男。
・『ビフォア・サンセット』を観たとき →http://hankichi.exblog.jp/15065811/
・『ビフォア・ミッドナイト』を観たとき →http://hankichi.exblog.jp/20789444/

『ビフォアxxx』シリーズで見せた、長廻しのカットの技法がここに生きていた。長廻しというが、とにかく一つのシーンは、長い対話のやりとりがずっと続き、そこにはカットがまったく入り込まない。だからそれは目の前で起きていることのように思える。観客は出演している人たちと、同じ時間の流れを共有する。それぞれのシーンの一瞬一瞬が光り輝く。俳優たちもキラキラしている。イーサン・ホークが格好良いことは、言うまでもない。

その彼が残そうとしたもの。僕にはよくわかる。賞を取っていて色々と既に書き連ねられていることだろうから、一番の印象だけを書く。それは、一言でいえば「一瞬ということの意味」だ。

映画の最後で、やり取りがある。大学に入学した主人公メイソンは寮で知り合った仲間とともに出かけたBig Bend National Parkで、「一瞬というのは、どういうことなのかしら?」というようなことを女学生から尋ねられる。彼はそれに対して、次のように応える。

"The moment is constant. The moment seizes us".
(一瞬というのは不変なものなんだ。[一瞬というものを僕らが掴むんじゃなく]あっちのほうが、僕らを掴むんだ。)

これがこの映画の集大成だと思った。リンクレイターの名作の数々に流れている、貴重な想いだ。

時間というものの流れのなかに乗って生きているということ、そのなかで人と人を出逢わせてくれるということ。奇跡の軌跡のかずかず。幸せというものはこういうことなのだ。

■スタッフ
監督、脚本:リチャード・リンクレイター
製作:リチャード・リンクレイター、ジョナサン・シェアリング 、 ジョン・スロス 、 キャスリーン・サザーランド
音楽監修;ランドール・ポスター
■出演
メイソン:エラー・コルトレーン
メイソンの母:パトリシア・アークエット
サマンサ:ローレライ・リンクレーター
メイソンの父:イーサン・ホーク
トミー:イライジャ・スミス
祖母:リビー・ヴィラーリ
ミンディ:ジェイミー・ハワード
ランディ:アンドリュー・ヴィジャレアル
■製作
2014年、アメリカ

◼映画を観終えたところで、飲んだコーヒーか旨かった。
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■予告編 →https://youtu.be/sM5RaDl2Z4g

■英語版予告編 →https://youtu.be/Y0oX0xiwOv8

  
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by k_hankichi | 2015-06-09 00:20 | 映画 | Trackback | Comments(5)
週末、二番館で『おみおくりの作法』(原題:'Still Life'→http://bitters.co.jp/omiokuri/、監督:ウベルト・パゾリーニ、音楽:レイチェル・ポートマン)を観た。

場所はロンドンのケニントン地区。民生係を務めるジョン・メイ(エディ・マーサン演じる)は、身寄りが無いまま亡くなった人を弔うことを主な仕事にしている。彼は、ひとりでも多くの知己を集めようとし、そしてそれが出来なかった場合は、故人の身の回りのもののなかから、彼(あるいは彼女)を偲ぶ弔辞をしたためていく。

そんな彼のもとにも、市政の効率を高めようとする嵐が押し寄せてくる。彼のじっくりとかつ丁寧な仕事では、費用が掛かって堪らない、というのだ。そして解雇されることになる。後任の女性はケニントン地区を含めて複数を兼務で受け持つという。彼女や上司の、血も心も通わない所作に、ジョンは愕然とする。

最後の仕事は、ジョン・メイの向かいの家に住んでいたビリー・ストークを弔うことになった。彼の知己を探す旅に出る。その過程過程で、ビリーのことなんて、もう昔のことだから知らない、という人々に出会っていく。彼らひとりひとりに対して、葬式を執り行うことを伝え、つれない返事を浴びせられながらも、次々に彼の人生をさかのぼってゆく。

彼が付き合っていた女にも出会い、残した子供にも出会う。前の奥さんとの間に設けた娘とおぼしき写真アルバムがあれば、それを新しいものに仕立て上げて、その娘を探し出して届ける。浮浪者をしていたころの人々とも出会い、スコッチ(銘柄は'Woods')を彼らとラッパ飲みしながら、故人のことを想いだしていく。

さまざまな思いが交錯し、彼が持っていた墓地の区画をも、ジョン・メイはビリー・ストークのために差し出してしまう。

そんな葬式に臨む直前。弔いを、より素晴らしいものにしようと、わくわくとした気持ちでロンドンの街角を一歩踏み出していた。

そして素晴らしいラストシーンが待っていた。

観終えて家に帰ってきて、僕は、ジョンのことを想いだし、ブレンデッド・スコッチならぬシングルモルトをストレートで煽った。哀愁ある映画の音楽のことが頭をよぎり、そして弔いの気持ちということが、さらに静かに沁みてきた。
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■予告編 →https://youtu.be/R-oJkuv82uE

■現地予告編 →https://youtu.be/Gt9CsXrlO8Y

   
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by k_hankichi | 2015-06-08 06:56 | 映画 | Trackback | Comments(2)
木下恵介監督の映画は、あのあと『女の園』(1954年、松竹)と『笛吹川』(1960年、松竹)を観た。どちらも高峰秀子が主演で、そしてどちらも僕の心の琴線は、ポロリとも音を立てなかった。この監督の作品は、どうも身に沁みない。

そして成瀬巳喜男に還帰する。『女が階段を上る(あがる)時』(1960年、東宝)。これは本当に素晴らしい作品だった。

何と言っても、主演の高峰秀子(矢代圭子役)が香り立つような美貌で、そしてそれだけでなく、一人で身を立てる女としての強い心が凛として響く。

彼女は、自分にすり寄ってくる男たちを巧妙に避け、甘いことを云ってくる周囲に対して、強い意志を以て楯突いていく。自分の実の母親に対しても、厳しい言葉を吐く。ちょっと遣る瀬無く、ひねくれ気味に捨て鉢な口調になるほどに美しく感じる。

男優陣も豪華だ。圭子が最も心を寄せるのは、銀行の支店長・藤崎であり、それは森雅之が演じている。成瀬の『浮雲』の組み合わせの再現かと、胸がドキドキする。そして、大阪の実業家・郷田。彼女を妾にしようと口説く。中村鴈治郎は、まさにぴったりの役回りだ。

優しく近づいてくる鉄工所経営者の関根役は、『浮雲』で伊香保の質屋を営み、女を森雅之に寝取られてしまった加藤大介。そして一番の上客は、利権屋で吝嗇な美濃部(小沢栄太郎演じる)。そんな彼らを、バーのマネージャ・小松が冷やかに見つめる。仲代達矢演じる彼は、圭子に静かに思いを馳せる。

一番に彼女を落とす男はだれなのか。女は何に弱いのか。

この映画の格調は、現在でもまったく褪せることがなく、僕はますます成瀬映画にのめり込んでいく。

※圭子の母親役は賀原夏子という俳優で、どこかで観たことが有るなあと思っていたら、『チャコねえちゃん』『チャコとケンちゃん』のおばあちゃんだった。

■スタッフ
監督:成瀬巳喜男
製作・脚本:菊島隆三
撮影:玉井正夫
衣裳:高峰秀子
■キャスト
矢代圭子:高峰秀子
藤崎(銀行支店長):森雅之
純子(女給):団令子
小松(マネージャー):仲代達矢
関根(工場主):加東大介
郷田(実業主):中村鴈治郎(大映)
美濃部(利権屋):小沢栄太郎
ユリ(マダム):淡路恵子
金貝(闇屋):多々良純
とし子(ユリの母):沢村貞子
ふじ枝(圭子の母):賀原夏子
■製作
1960年、東宝
※音響は、パースペクタ・ステレオフォニック・サウンド。

■予告篇 →https://youtu.be/JuCC_8BceZk

  
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by k_hankichi | 2015-06-07 00:35 | 映画 | Trackback | Comments(2)
めっぽう素晴らしい演奏に出会って、心が洗われている。ダニイル・ボルショヴィッチ・シャフランによるバッハの無伴奏チェロ組曲。第2、4、6番が入った音盤だ。

ロストロポーヴィッチよりも4歳年上。早い時期に頭角を表したが、第二次世界大戦が活躍を阻んだ。

レ二ングラード音楽院を卒業したのは1950年、27歳のとき。ライバルのロストロポーヴィッチは23歳。世界に羽ばたくその影に怯えるかのように、シャフランはソヴィエトのなかに隠れてゆく。

国外活動もしていくものの、ベルリンの壁が崩壊するころには、彼のコンサート活動は終わりを迎えようとしていたという。

そのひとによるバッハ。

「覆された宝石」のような朝、ならぬ、「ぶちまけられた素直さ」のような黎明であった。

フルニエの燻し銀とは全く異なる。ウィスベルウェイの哲人とも、マイスキーの楽天、トゥルトリエの明朗さも異なる。

シャフランは自然体で、それは高原でもなく、しかし宇宙という感覚でもない。押し付けがましい思想や、哲学や、詩歌でもない。

「爽やかさ」が崇高に変わる、というような世界。

疲れきった人間、捨て鉢になった人間は、この演奏を聴けばよい。

そこには善悪の彼岸を越えた、雑念を知らない世界がある。

■曲目
J.S.Bach: 無伴奏チェロ組曲 NO.2, 4, 6 (BWV1008, 1010, 1012)
■録音
1973~1974年
■音盤
メロディア MEL CD 1001938
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Cello

Daniil Shafran / Melodiya

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by k_hankichi | 2015-06-06 08:47 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

みちのくのラテン

みちのくの水無月
朝はひんやりとして
爽やかだ

カフェの熱い珈琲が
程よく身に沁みる

フレンチポップの音楽が
聴こえてきて
気持ちはいつしかパリの街

カルチェ・ラタン
の歩道の前に
さざめく波動を吸い込んでいく

かと思えば
グラン・プラスのラ・ブルーエット(La,Brouette ※)の
クロワッサン・ジャンボンを喰らう朝
を思い出す
昼の喧騒を知らぬかのような静寂

ここはみちのく
あのむこうのが安達太良山

その先の遥かな先に
静かな朝が
待っている

そこはまだ夜
ヨオロッパは
漆黒に深い

http://www.taverne-brouette.be/notre-carte/
メニューは以下。
« Grand Place »: Assiette jambon/fromage, pain au chocolat, toast et croissant, confitures, gaufre de Bruxelles, jus d’oranges pressées, café, thé ou chocolat chaud
ここにも少し書いた。→http://hankichi.exblog.jp/17448748/
  
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by k_hankichi | 2015-06-05 08:03 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
フランスのナントで行われた本場ラ・フォル・ジュルネのプログラムに準拠した音盤だと、CDショップの店頭に宣伝があり、 ジャケット写真はクリムトの『接吻』。3枚で1000円程度と言う値段にも驚いて、思わず買い求めた。

アルバムのタイトルは、Folles Passions。今年のナントでのテーマは「パッション(受難と情熱)」で、そこから取られている。→http://www.follejournee.fr/sites/default/files/fichiers/files/Brochure%20FJN15BD14.pdf

バロック音楽の宗教曲から始まり、古典派、そしてロマン派からシェーンベルクまでの作品が入っている。
内容は次 →http://tower.jp/item/3774908/Folles-Passions%EF%BC%9C%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%94%9F%E7%94%A3%E7%9B%A4%EF%BC%9E


何が良いのかといえば、それぞれの世代の受難曲、そして近世は情熱について、さまざまな曲が、次々に繰り広げられるところで、その意外性と組み合わせに感嘆する。

なかでも特に良いのは、やはりバロック世代だ。
1. J.S. バッハ:《ヨハネ受難曲 BWV245》より 第1部 第1曲 合唱「主よ、私たちの支配者よ」
2. ヘンリー・パーセル:《ディドとエネアス》より 第3幕 ディドのラメント「私が地に伏す時」
3. アントニオ・ヴィヴァルディ:《スターバト・マーテル RV621》より 「悲しみに沈める御母は涙にくれて」
4. ドメニコ・スカルラッティ:《スターバト・マーテル》より 「悲しみに沈める御母は涙にくれて」
5. フランソワ・クープラン:《クラヴサン曲集 第3巻 第18組曲》より ティク・トク・ショク、あるいはオリーブ搾り機
6. ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル:歌劇《リナルド》第2幕より 「私を泣かせてください」
7. グレゴリオ・アレグリ:ミゼレーレ
8. ディートリヒ・ブクステフーデ:カンタータ《我らがイエスの四肢 BuxWV75より》 第1曲足について「山の上に見ゆ」
9. アレッサンドロ・スカルラッティ:《スターバト・マーテル》より 「悲しみに沈める御母は涙にくれて」
10. マラン・マレ:3つのヴィオールのための曲集第4巻-組曲より 「ジーグ」
11. ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ:《スターバト・マーテル》より 「悲しみに沈める御母は涙にくれて」
12. クラウディオ・モンテヴェルディ:《戦いと愛のマドリガーレ 第8巻》より 「今や天と地と風が黙し」
13. ジャン=フィリップ・ラモー:歌劇《プラテー》第2幕より「アポロンの憔悴」
14. ハインリヒ・シュッツ:《ルカ受難曲》 SWV480より 「イエスを監視していた人たちは」
15. ゲオルク・フィリップ・テレマン:《食卓の音楽》(ターフェルムジーク)第1集 終曲 ホ短調-アレグロ
16. ヨハン・セハスチャン・バッハ:《マタイ受難曲》BWV.244終結合唱「われらは涙流してひざまずき」
17. マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ:オラトリオ《聖ペテロの否認》H424より

奥深く、こころ沁みとおる曲の数々を聴いているだけで、ただただ吐息が出た。

Folles Passions-j.s.bach: Passions-schoenberg: Verklarte Nacht

コンピレーション /

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by k_hankichi | 2015-06-04 00:36 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
川本三郎による『成瀬巳喜男 映画の面影』(新潮選書)を読了。成瀬の映画を深く観てきた人だからこその言葉に溢れている。映画『浮雲』についても、次のように書く。

“千駄ヶ谷駅前で再会したあと、「行くところがない」二人が行くところは、結局は、伊香保温泉。そこで正月を迎えることになる。世の中からますますはずれてゆく。(中略)「行くところがない」二人は旅館で酒を飲みながら冗談まじりに心中の話をする。はじめて映画のなかに死があらわれる。死の影がさす。富岡は平俗にいえば、女蕩らしのところがある。かげのある知的な二枚目、森雅之に合っている。一種の色悪。林芙美子は森雅之を想定しながら『浮雲』を書いたのではないかと思わせるほど、この名優は富岡というくずれたインテリにふさわしい。”(第6章 「私たちって、行くところがないみたいね」より)

こういう風情を描けるところは、小津安二郎でもなく、木下恵介でもなく、黒澤明でもない、成瀬ならではなのだと思った。

成瀬巳喜男 映画の面影 (新潮選書)

川本 三郎 / 新潮社

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by k_hankichi | 2015-06-03 00:38 | | Trackback | Comments(3)
木下恵介の映画DVDを観続けて、いささか(というかかなり)食傷気味だった日曜日、意外に良いよ、という言葉に釣られて、『ビリギャル』を思わず観に行った。

これは良かった。ふだん観に行く映画館の客層と違って、この作品は95%がティーンエイジャーで、そういう若い層の関心や感受性に触れた感がある。

そして有村架純(劇中、工藤さやかを演じる)である。

彼女が、自分も頑張らねばと改めてハッとするときの言葉が胸を打つ。それは、塾の講師・坪田の姿勢に触れた時だ。彼のことを、「他人の未来の為に、必死でがんばる人」と表現した。

そしてその熟講師も、次のように彼女に伝える。

「意志があるところに道は開ける。」“Where there's a will, there's a way.”

有村は、その言葉に呼応するかのように、無我夢中になって進む。そういう姿には、だれもが感銘する。

この映画を演じるのは、いま、彼女を置いて他はなく、このワサワサとした他者をあげつらう一方だけのような世の中に、豊かなる清涼を投げ入れた感があった。

■スタッフ
監督:土井裕泰
原作:坪田信貴
脚本:橋本裕志
音楽:瀬川英史
■キャスト
有村架純:工藤さやか
伊藤淳史:坪田先生
野村周平:森玲司
その他、大内田悠平、奥田こころ、あがた森魚、安田顕
■製作
2015年、日本

■予告編 →https://youtu.be/ICQiL8QUVAg

  
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by k_hankichi | 2015-06-02 00:29 | 映画 | Trackback | Comments(2)
続いて『カルメン純情す』(木下恵介監督、高峰秀子主演、1952年、松竹、キネマ旬報第5位)を観る。ここでも高峰は、何の恥じらいも何もなく、能天気な女(ちょっと頭の弱い女)を演じている。こういう人はこういうふうな振る舞いをするのだなあ、と納得するほど真に迫っていて、だから、これを演じられるのは高峰を措いてほかない。

若いころは読み書き算盤も満足にできなかったと、彼女は自伝で書いている。この作品は高峰がそのままの自分を出せていたころなのかもしれない。なかでも特に、芸術家に一目惚れしてしまったカルメンの、実にしおらしい表情が魅力的だ。

この作品は撮影のカメラアングルも独特だ。それぞれの人の心境を描くかのように、画面が傾いて撮られている。心をの内側を覗き込むようで面白い。女性の政治参加、再軍備論争などもストーリーに組み込まれている。東京の戦後の風情もたくさん出てきて嬉しい。

前作よりも遥かに楽しめた逸品だった。

■予告編 →https://youtu.be/2HgEVRycQ3k


木下惠介生誕100年「カルメン純情す」 [DVD]

松竹

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by k_hankichi | 2015-06-01 00:13 | 映画 | Trackback | Comments(4)