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2015年 06月 20日

『娘・妻・母』(成瀬巳喜男監督)に思う

CS放送で『娘・妻・母』(成瀬巳喜男監督)が放映されていて、長らく探していた作品だったので、ガツガツと観た。

タイトルが流れ始めたところで、椅子から転げ落ちそうになった。布地の上に、出演者名が縦書きで朱色や茶色で浮き出される。小津安二郎のカラー作品と同じ趣向じゃあないか。アグファカラー色でもある。

そしてストーリー。夫に死別した母(三益愛子演じる)、それから三女と一緒に暮らす長男夫婦(森雅之、高峰秀子演じる)。そこに、おなじく夫に死に別れた長女(原節子演じる)が転がり込む。二女は嫁いだ先の姑と一緒に暮らし、二男は年上妻とアパート暮らし。

そんな生活の中で、長女に湧いた縁談(京都の茶道家、上原謙演じる)。その傍らで心を寄せる人の出現(仲代達矢演じる)。

長男が良かれと思って進めた投資が破たんし、一家は危機に瀕する。そこでそれぞれの兄弟姉妹が発する会話。そういうやりとりを聞くお母さんは、心痛はなはだしい。

長女はどうするのか?原節子と三益愛子の会話に、東山千栄子との会話がオーバーラップする。

『東京暮色』は、小津安二郎が成瀬巳喜男になろうとして撮った作品だとすれば、『娘・妻・母』は、成瀬巳喜男が小津安二郎になろうとして撮った作品だったのだ、と思った。

自分のスタンスや持ち味とは違う足を踏み出すとき、傍から見ればそれはぎこちなく見える。成瀬の『浮雲』の世界が懐かしかった。

■スタッフ
監督:成瀬巳喜男
脚本:井手俊郎 、 松山善三
音楽:齋藤一郎
製作:1960年、東宝、カラー
■キャスト
坂西あき(母)三益愛子
坂西勇一郎(長男)森雅之
坂西和子(妻)高峰秀子
(曽我)早苗(長女)原節子
谷薫(二女)草笛光子
坂西春子(三女)団令子
谷英隆(薫の夫)小泉博
谷加代(英隆の母)杉村春子
坂西礼二(二男)宝田明
坂西美枝(礼二の妻)淡路恵子
黒木信吾(醸造技師)仲代達矢
鉄本庄介(和子の叔父)加東大介
五条宗慶(早苗の見合の相手)上原謙

■予告編。 →https://youtu.be/bR6QOuoAIn8

娘・妻・母 【東宝DVDシネマファンクラブ】

東宝

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by k_hankichi | 2015-06-20 08:56 | 映画 | Trackback | Comments(4)
2015年 06月 19日

ル・ブルジェへの想い

パリ・航空ショーが開催されている。場所はル・ブルジェ空港(Aéroport Le Bourget)。なにか夢を連想させるような音感の場所で、だからぼくは永い間そこに憧れている。 →http://www.siae.fr/EN

ニューヨークから飛び立ったチャールズ・リンドバーグが、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したとき、「翼よ、あれがパリの灯だ!」と、叫んだのは、あとからの脚色だ、ということを知ってはいたが、それでも、その空港は、シャルル・ドゴール空港ではつまらなくて、そしてまたオルリー空港ではジャン・ギャバンが待ち受けているようで、おっかない。

ル・ブルジェ・・・。

そのサンサシオン。

その音感の美しさ故に、僕の中で、ずっとずっとシャガールの世界の中の出来事として留まっている。

それがぼくのル・ブルジェ。
 
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by k_hankichi | 2015-06-19 07:25 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
2015年 06月 18日

一気にしか飲めない功罪

飲み物を出されたり、自ら買い求めるたびに、じぶんの「さが」に思いを馳せる。そして複雑な気持ちになる。きっとカレーパンマンのような、ちょっと情けない顔つきになっているだろう。

「さが」とは一気に飲んでしまう、ということである。少しずつ味わって飲むことが出来ない。コーヒーのコマーシャルのような飲み方なんて逆立ちしても出来やしない。熱いものでも冷たいものでも。

■コーンポタージュスープを一気に飲む。
■焼酎ロックを一気に煽る。
■味噌汁を具をあまり確かめずに、ずずーっと飲み干す。
■マウント・レーニアというコーヒー飲料は、蓋を引き剥がして一気に飲む。
■お客さんの前でストローを使わずにアイスコーヒーをコップから飲んでいることに気付き、流石にストローを挿す(が時すでに遅し)。
■シャンパンが、くいっくいっと空く。
■赤ワインも同じである。
■バイチュウという強烈な中国酒でも大丈夫である。
■コーンフレークに牛乳をかけても、スプーンを使うのが面倒くさく、椀から飲み込む。
■トマトジュースは、早く飲みすぎて味が分からない。

「随分はやいね。」
「加減して飲めないの?」
「ごはんやおかずのまえに飲み終えてはバランス悪いわね。」
「一気ですか!」
(口をあけ、びっくりして、目をシバシバされる)

そういう反応がくる。

そのたびに、悲しくなる。訳が分からなくなる。どうしてなのかな。何故かな。繰り返しだな。

「さが」は直すことができないから「さが」という。この言葉の意味を噛み締めた。
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by k_hankichi | 2015-06-18 07:52 | 食べ物 | Trackback | Comments(2)
2015年 06月 17日

アリス・アデールによる『フーガの技法』

ブログ友達らがバッハの『フーガの技法』を聴きこんでいる。中高生時代のように何だか焦る。やばい僕も勉強せねば、というような感じだ。

そうは言ってもこの曲は苦手な類に入る。探しあぐねながら辿り着いたのは、アリス・アデールのピアノによる音盤だった。

アリスは、極めてゆっくりとしたテンポで弾きはじめる。ちょうど、平日の閑散とした夜のプールで、身を横たえながらゆらゆらと浮き身をしているかのよう。それは瞑想空間でもある。

第二曲はうって変わってゆっくりとしたジャジーな振る舞い。心踊らせて良いのかと途迷いながらもそうなる自分に気づく。

どの曲にも躊躇いと内省がある。

『フーガの技法』が少しずつ分かってきた。そう思う。

■音盤
Fuga Liberta MFUG544
■録音
2007年9月、ポワシー劇場

J.S.バッハ:フーガの技法(全曲)

アリス・アデール / 株式会社マーキュリー

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by k_hankichi | 2015-06-17 06:54 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(5)
2015年 06月 16日

ガビチョウ(画眉鳥)で目覚める朝

初夏。明るくなるとともに始まる鳥たちの囀りによって最近は目覚める。何の鳥なのかと思って調べてみたら、どうもガビチョウ(画眉鳥)という種類らしい。その鳴き声は、さまざまな趣向が凝らされ、毎回毎回、何らかのトライアルをしているのかと思うほどだ。

あまりにもけたたましいので、思わず起き上がり、窓の外を見据えてみれども、ぼけた眼(まなこ)ではそれを見定めることはできない。

寝不足のみなもとは、いつまで続くのだろう。

「朝ぼらけ 暑さ眠さの 繚乱や」

https://youtu.be/KQGzRw87wKE

  
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by k_hankichi | 2015-06-16 06:17 | 街角・風物 | Trackback | Comments(6)
2015年 06月 15日

『時計屋さんの昭和日記』展

小さな展示会に足を運ぶことも多い。『時計屋さんの昭和日記』展もその一つだった。横浜都市発展記念館での開催。→http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/

一青年のみた戦中戦後の横浜、という副題で、横浜の時計屋に丁稚奉公に来た下平政煕が、その初日から平成6年に亡くなる前日までつけてきた日記がもとになっている。

戦後70年を迎えるこの年。テレビや書籍でたくさんの企画モノがあるなかで、小市民が観てきた世の中の動き、ささやかなる幸せとの狭間の日々が、ここには浮かび上がっていた。

展示館では、「昭和の横浜」という400ページにも渡る写真集が販売されていて、それはしかも2000円という安価。おもわず買い求めて、この街の昭和の歴史を噛みしめた。

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by k_hankichi | 2015-06-15 00:16 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
2015年 06月 14日

『詩についての小さなスケッチ』(小池昌代)のなかの茨木のり子

詩人・小説家の小池昌代が著した詩についてのエッセイと評論は面白かった。『詩についての小さなスケッチ』(五柳叢書)。さまざまな詩人の詩や作風についても、ひとつひとつ、ゆっくりと味わい噛みしめ、理解しようとする。茨木のり子の詩については、リルケの『マルテの手記』を引用しながら次のように書く。

“「詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ」(大山定一訳、新潮文庫)。

茨木のり子は、そのように、蜜と意味を丹念に集め、それらがゆっくりと蒸溜されるのを待って一編を書いた。とても贅沢な詩人である。わたしが最初に出会ったのは、「汲む -Y・Yに-」という詩だ。読んで泣いた。”


「汲む―Y・Yに―」   茨木のり子

大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです


こういう詩に会えることは幸せだ。

詩についての小さなスケッチ (五柳叢書 101)

小池 昌代 / 五柳書院

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by k_hankichi | 2015-06-14 10:19 | | Trackback | Comments(2)
2015年 06月 13日

『もしも、詩があったら』(アーサー・ビナード)

アーサー・ビナードの詩はあまり読んだことがなかった。『もしも、詩があったら』(光文社新書)では、彼がどんなところに詩情を感じ、日本語にも親しみ、詩を書き、今に至ったのかを知ることができて、ああこのひとは僕の仲間だったんだなあ、と分かって親しみが増した。

彼は高村光太郎の次の詩を紹介している。作者の隠しきれない告白だといいながら、核心に触れないまま詩が終わるとする。僕も、この物足りなさが却って悲しみを増すのだとも思った。

「もしも智恵子が」

もしも智恵子が私といつしよに
岩手の山の源始の息吹に包まれて
いま六月の草木のここに居たら、
ゼンマイの綿帽子がもうとれて
キセキレイが井戸に来る山の小屋で
今年の夏がこれから始まる
洋々とした季節の朝のここに居たら、
智恵子はこの三畳敷で目をさまし、
両手を伸して吹入るオゾンに身うちを洗ひ、
やつぱり二十代の声をあげて
十本一本のマツチをわらひ、
杉の枯葉に火をつけて
囲炉裏の鍋でうまい茶粥を煮るでせう。
畑の絹さやえん豆をもぎつてきて
サフアイア色の朝の食事に興じるでせう。
もしも智恵子がここに居たら、
奥州南部の山の中の一軒家が
たちまち真空管の機構となつて
無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。

詩の舞台と同じ六月に、詩の舞台と同じみちのくから帰京して、この詩を読んだら、遠くにいるはずの智恵子が、僕のすぐ目の前に居るような気がした。

もしも、詩があったら (光文社新書)

アーサー・ビナード / 光文社

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by k_hankichi | 2015-06-13 07:59 | | Trackback | Comments(4)
2015年 06月 12日

産経新聞に変えたくなる本

産経新聞の社会部デスクをされていた高山正之という人が、「週刊新潮」に連載していた辛口コラムを集めたものが出ていて、題名につられて買い求めて読んでしまった。『変見自在 オバマ大統領は黒人か』(新潮文庫)。

朝日新聞を糾弾する程度が凄い。凄すぎて唖然として二の句が継げない。
“しかし読者は、朝日記者が沖縄のサンゴに彫り込んだ文字が「KY」(※後記:空気が読めないこと)だと覚えている。(中略)河本敏夫は新人議員のころ、大酒飲んで銀座でタクシー運転手をぶん殴って怪我をさせた。彼は以来大好きな酒を断った。朝日の記者にはわからないだろうが、こういう生き方もある。なんでも忘れたふりよりはるかに美しい。”(朝日新聞の「KY」より)

これを読んでしまうと、朝日新聞と産経新聞の差が分かるように思えてくる。

どちらがどうだ、ということは分からぬのだけれど、とりあえずは新聞を変えたくなる。

しかし、思う。どれを読もうとも、同じなのだ。自分がきちんと考えなければならない。それだけは確かだ。

変見自在 オバマ大統領は黒人か (新潮文庫)

高山 正之 / 新潮社

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by k_hankichi | 2015-06-12 00:10 | | Trackback | Comments(0)
2015年 06月 11日

『不愉快な本の続編』の不愉快

小説の出だしの前に箴言的に次のように書かれていた。

“私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。廷内に笑いがあがった。”(『異邦人』カミュ)

だから『不愉快な本の続編』(絲山秋子、新潮文庫)を読むということは、不条理との出会いなのだと思って掛からなければ、本当はいけなかったのだ。

結局、終わりまで読んでも、何ことやらさっぱり分からなかった。分からない小説なのに、妙に訳知りに解説を書いていた鹿島田真希というひとは、だから猶更、よくわからない輩だと思った。

それにしても、たとえ仮に不条理を伝えようとしたとしても、どうして呉から東京、東京から新潟、新潟から富山、富山から呉へと周回するかのように移りゆかなければならないのか。

それはね、人が生きているということが不条理だからさ。そんなふうに言ってしまえばおしまいだ。

僕は思う。この苛立たしいまでに憎たらしくなる感覚こそ、絲山さんが僕らに味わってもらいたかったことなのだろう、と。

決してカミュのことなんか、思うことはなかった。どっちみち、元に戻るのだ、ということだけは、分かった。

不愉快な本の続編 (新潮文庫)

絲山 秋子 / 新潮社

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by k_hankichi | 2015-06-11 06:43 | | Trackback | Comments(2)