宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観た。ココ→
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幾種類もの風が、実に精緻に描き分けられ、自然の美しさのリアリズムが際立つ映画だった。空を見上げての眩暈、月が光輪のようにおぼろ霞む姿、驟雨のひと筋ひと筋が身体に沁みとおってゆくような佇まい、彼女のことを心配に想う涙がぽたりぽたりとノートに滲むそのじんわりさ。
これらは、実写やあるいはコンピュータ・グラフィックスでは却って難しく、宮崎アニメゆえの、ある種の時間的空間的な余白というか、粗雑と丁寧のぎりぎりの狭間が生きるところなのだと感じる。
主人公、堀越二郎は、子供のころからイタリアの航空機設計技師カプローニの著書を読み、飛行機を設計することを夢見て育ち、そして大学でそれを専攻するところに至る。夢のシーンは何度も出てくるのだけれど、出てくる飛行機は、どれも奇怪な形態をしていて、またそれは幾つにも態様を変えてゆく。夢は僕の場合も、このような感じで茫洋としていて、だから却って夢としてのリアリティがある。
そんななか、彼は汽車のうえで里見菜穂子に出会うことになる。彼の帽子が鉄橋の上で風に飛ばされ、それを彼女がキャッチするのだ。そのときの二人が会話で諳んじるのは、ポール・ヴァレリー(Paul Valéry)の詩[※]の一節“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”(風が立った!生きようと努めねばならない![風立ちぬ、いざ生きめやも(堀辰雄訳)])。ああ何と夢想的な二人なのだろうか。二人の心の交感のきっかけであり、終わりまで貫かれる二人の気持ちなのだ。
飛行機会社の設計技師となった堀越の前に立ちはだかるのは、欧米の航空機設計技術に比べて20年遅れているという日本の技術。ドイツのユンカースの旅客輸送機G38のライセンス生産をすることになり、先方の技術を把握しに渡欧する。このあたりの飛行機の描写は実に精緻で、トロイの木馬のようにどでかいユンカースの機体の量塊の凄味はとても迫力がある。外装の波型外板(鋼管骨格にジュラルミンの波形板を貼ったもの)の様相や、翼の中の構造まで実にリアルで、この航空機を実写含めてこれほどまでに描写したものは無かったのではないだろうか。
結核に冒されている菜穂子のことが心配で心配で仕方がない堀越なのだが、一方で仕事としての飛行機設計についても粉骨砕身で尽くしていく。愛と仕事の両立ができるのか。彼への愛を成就させるべく菜穂子がとる行動とは・・・。
主人公の堀越の声を演じるのは、庵野秀明というアニメーション映画監督。俳優や声優ではない、モノトーンなぶっきらぼうさにはびっくりするが、しかしあとから思い返せば、これが却って、エンジニアの朴訥さとひたむきさを表現できているのだ。劇的に無理やりにも気持ちを昂ぶらせようとはしない、滂沱の涙をお仕着せようとはしないことが、実は「人が愛と夢に生きてゆくということはこういうことなんだ」ということをわからせてくれる。
♪「ほかの人にはわからない あまりにも若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ
空にあこがれて 空をかけてゆく あの子のいのちは ひこうき雲」♪
という歌そのものと同じ、愛する切ない気持ちと心の情景が、美しい山河と自然と風に溶け込む。普通は相容れないようなエンジニアの夢が、そのなかに季節の移ろいの瞬間のように絶妙に融合され描き尽された映画だった。
※「海辺の墓地」(Le Cimetière marin)[1920年]。詩集Charmes ou Poèmes par Paul Valéry『魅惑』[1922年]に収録。
■『風立ちぬ』Trailer ココ→
http://youtu.be/a3PBiLDXawU