一枚の写真


仕事の後に懇親会が設けられ、初めて会った人たちであっても苦労話やら難題、それを繋いでいくための経験や人脈、はたまたそれぞれの人の趣味趣向などを交わしていくと、なんだか自分も集団のなかで生きているような気分になってゆく。

酒が好きな人が見つかれば、二次会、三次会にも繰り出すが、そのまま散会となると、途端に手持ち無沙汰になるのが困ったことで、だから自然と路地を探しつつとおりを彷徨う。街角オタク地図オタクたがら迷子になることは無くて面白みに欠けるけれど、それでも新たな路地を発見して今度足を踏み入れてみようと思う。

今週の寄り道は、友人から教えて貰った「文壇バー」(そう呼んでいるだけで本当の名前は別にある)。店内の照明は暗くて、客はぼそぼそと囁やくように話をしている。内容はフランスの近代哲学のはなしだったり、学究者たちの仮説の違いだったり、そうかと思えばふらりと立ち寄った旅人(ヨオロッパ人が何故か多い)の問わず語りだったりもする。マスターは黙ってそれに耳を傾けている。

そこに居るとどうしてか生きた心地がついてきて、その空間と時間にいつまでも身を浸していたくなる。

後ろ髪を引かれながらジントニックの二杯ぐらいを飲んだあとに引き上げるのが通というものなので、そうしてこの夜も過ぎ去っていった。

一枚の写真だけが残っていて、遠い彼方に忘れ物をしてしまったような気分。「しん」と音が聴こえてきそうな、ちょっぴりの寂しさと心地よさが入り混じったような思い出だ。



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# by k_hankichi | 2019-01-18 07:36 | | Trackback | Comments(3)

『ニノチカ』を観て唸る

凄く良いスクリューボール・コメディだ、とナンバーワン級に小林信彦が推していて、とても気になって買い求めた。そして酒を飲むのも早々に切り上げて観はじめたら一気に引き込まれた。

『ニノチカ』(エンンスト・ルビッチ監督、グレタ・ガルボ主演、1939年、MGM)。

実はグレタ・ガルボの出た映画は観ているようで殆ど観て来なかったことも気づいた。そしてこの女優が写真でよく知られた濃い化粧ではなく、素に近い出で立ちで出演しているそのなんとも言えない魅力にぐいぐいと惹きこまれた。

どこかでこの無表情な雰囲気を知っていると思いだそうとしたけれど、なかなか辿りつかない。

華やかさとは無縁な遣る瀬無いこの翳りはどこからもたらされるのだろうか、と思っているうちに、ああこれは誰もが心のなかに持っている哀しみの中枢と響くのだと思い当たった。

自分の気持ちに気づくことで心が拓かれてゆく女。恋する心がもたらす微かな希求。もう叶えられないものだと気力も何も失せてしまったなかで、それが本当の恋だと気づく。その幸せ。

これまで僕にとっては『ローマの休日』が最高の映画だったけれど、この作品の洒落っ気とサパサパとしたテンポはまた別の機軸で素晴らしい。

「いやぁ、映画って、ほんとうにいいもんですね〜!」と叫びたい夜になった。





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# by k_hankichi | 2019-01-17 00:22 | 映画 | Trackback | Comments(4)

寒い夜に暖をとりながら耳を傾ける音楽は、どのようなものでも心地よく感じるが、いま聴いているそれは何の邪念も蟠りも心配も興奮もなく静かに過ごせるものだ。『グレゴリアン・チャントの神秘』と題された音盤は米国の合唱団シャンティクリアによるア・カペラ。

普通ならば癒しの音楽と言ってしまうだろうが、それを通り越してまさに透き通った媒体の中に身を浸している。無心という状況になる。

「灰の水曜日」「枝の主日」「聖木曜日」「聖金曜日」「聖土曜日」「復活祭」「聖母マリアのためのアンティフォナ」といった、まるで聴いたことのない曲が次々に流れていく。

どれが水曜日でどれが金曜日なのか、全然わからないけれど、それでもよいのがグレゴリアン・チャント。もっと聴き込んで曜日やら曲名やらが直ぐに言い当てられるようになろうかとも思ったが、そんなことはもとから求められていない音楽だと悟る。

ただひたすらに素朴に浸る夜だ。




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# by k_hankichi | 2019-01-16 00:26 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)


ブログ知人のNumabeさんが11月に紹介していたフォーレのオーケストラ曲と組曲のアルバム『秘密のフォーレ』を手に入れて、旅先で聴き入っている。最近の宿にはCDやDVD再生機もリクエストに応じて用意してくれるから、テレビに繋げるだけであたかも自宅のような寛ぎに包まれる(コンポーネントのアンプやスピーカーは無いから、そこはかとない音ではあるけれども)。

この音盤は実に癒される雰囲気で、それは気負うということからかけ離れた肩肘張らぬ姿勢(オケも歌手も)がそうさせるのだと思うし、そしてまた演奏している人たちがフォーレの音楽を本当に好きなことがもたらしていることが説明無くしてわかる。

Numabeさんは「英国の指揮者、スイスの楽団と合唱団、ロシアとドイツの歌手の不思議なアマルガムから生まれた新時代のフォーレ演奏」と評している。まったく頷く。フォーレの音楽をこんなに慈しんでありがとう、とフランス国民に成り代わって伝えたくなる。

そして思う。

今のこの自己中心的なる各国の世知辛い社会情勢を脇にながめながら、それでもいま僕らにできることは、自己を犠牲にしてでもアマルガムのように、相手の物質や懐に互いに溶け込み融合しようとすることしかないのかもしれない。

100年前の世紀末の頽廃の雰囲気を現代に重ね、何かしらの望みを見出そうという淡い希求が聴こえてくる。

■曲目
音盤タイトル〜"The Secret Fauré"
フォーレ:
1. 劇音楽《カリギュラ》(全五曲)***
2. 歌劇《ペネロープ》前奏曲
3. ソプラノと管弦楽のための歌曲*
1) イスファハンの薔薇(管弦楽編曲/フォーレ)
2) 夕べ(管弦楽編曲/ルイ・オーベール)
3) 月の光(管弦楽編曲/フォーレ)
4) 夢のあとに(管弦楽編曲/アンリ・ビュセ―ル)
4. 劇音楽《シャイロック》(全五曲)**
5. 組曲《ペレアスとメリザンド》(「メリザンドの歌」*を含む)
■演奏
ソプラノ/オリガ・ペレチャトコ*
テノール/ベンヤミン・ブルンス**
アイヴァー・ボルトン指揮
バルタザール=ノイマン合唱団(女声合唱)***
バーゼル交響楽団
■収録
2017年8月14~18日、ドルナッハ、ゲーテアヌム
■音盤
Sony Music Germany 19075818582

※末尾の顔写真はオリガ・ペレチャトコ(解説書の裏表紙になっている)。首を傾げた仕草は誰と言わずでもちょっと愛らしい。


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# by k_hankichi | 2019-01-15 00:14 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)

昨年はドビュッシーの没後100年だったから、それにまつわるさまざまな音楽会があり、音盤や本が刊行された。本当はその波に乗りぐいぐいと彼の音楽を吸収していきたかったが、何故かタイミングを逸して、師走のころに気づけば、土用波が打ち寄せる海を指を咥えて眺めているような面持ちになっていた。

そんななか年初に買い求めたのがジャック・ルヴィエによる一枚。この演奏にはびっくりした。こんなドビュッシーの演奏を聴いたことはこれまで全くなかった。

『ベルガマスク組曲』『2つのアラベスク』などが入っているのだけれど、出だしからして良い具合だ。

素っ気ない風情といったらこの上なく、それでいて付かず離れずの感覚は、ああこの人はそうやりながら人の気持ちに寄り添って行くのだということが分かる。

そして抑揚を効かすことに堪えきれなくなったとき、ええっと驚くほどの叙情が迸る。その人間味に思わず笑みを漏らしてしまう。

恩着せがましさとは無縁な、孤高の輝きがあるこの人の演奏は、これからずっと離さないだろうものになってしまった。

■曲目
ベルガマスク組曲
2つのアラベスク
バラード
ロマンティックなワルツ
ジプシーの踊り
マスク
ハイドン讃
喜びの島
■収録
1985.5.4-8、コンセルトヘボウ、ハーレム、オランダ
■音盤
日本コロムビア 33C37-7734




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# by k_hankichi | 2019-01-14 00:29 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)