2018年 04月 12日 ( 1 )

粋な日本語を喋りたい

読み始めた本がどうもいつか読んだような気がして、しばらくしてそれは始めの出版時から題名が変更されてすこし改訂増補されたものだと分かった。『小津映画  粋な日本語』(中村明、ちくま文庫)。その原著は『小津の魔法つかい』(明治書院)。

それでも結構楽しめて、それは読んだ内容を人は如何に忘れるかということを証明するプロセスのよう。一連の小津映画が登場人物や背景の設定を少しずつ変えながら、繰り返し作り上げられるように、人の記憶は常に薄れまた書き換えられてそれが続いていくかのよう。

小津作品にほぼ必ずでてくる言葉についての紹介も、読んでいると改めて感じ入る。「ちょいと」のような言葉のリフレインはリフレイン以上で、それはあたかも音楽的に必要な和声の一部なのだとわかってくる。

「『晩春』では、曾宮周吉が「ちょいと見といでよ」と言い、その娘の紀子も、「いつ?」という父の問いに「お昼ちょいと過ぎ」と答える。翌年の『宗方姉妹』でも、真下頼子が「ちょいと・・・お客さまお帰りんなったら、カトレアへお電話頂戴って」お店員に呼びかけて伝言を依頼するし、宗方家の次女の満里子も「でも、ちょいと本気なとこもあったんだ、へへへ」と照れ笑いをもらす。(中略)『お茶漬の味』でも、雨宮アヤに「どっか行くの?」と聞かれた節子が「ええ、ちょいと」と応ずるし、特にヒロインの佐竹妙子などは、「じゃ、ちょいと旦那さまに断わっとこう」「いないのよ。ちょいと前、お客さまと出かけたんだって」「うん、ちょいとあぶなかったけど」「ちょいとお丼」というふうにわ「ちょいと」を連発する。その翌年の『東京物語』は、まさに「ちょいと」の花盛りで、ちょいと壮観である。(中略)長男の幸一も「ちょいと心配な子供があって、急に出かけなきゃならないんですがね」と上京してきた父親に訳を話して往診に向かう。「おれも困ってんた」とか、「おかあ、汽車ン中で、ちょいと具合悪くなって、大阪でおりたそうだけど」とかと、妹の金子志げに言い、尾道に駆けつけた際にも、「お父さん、ちょいと」と周吉を隣の部屋に呼び出し、医者の立場から母親とみの容態を告げる。」

つぎのような一節がいつまでも心の底に残ってこだました。

“カメラマンの荒木経惟は、小津映画についてこんな感想を述べている。どの映画も同じことのくりかえしで、出てくる飲み屋も同じだし、どれもちゃぶ台のある場所に人が集まるから、作品をいくつ見ても、どれがどれやらわからない。だが、作品は人の往来なのだと気づいたという。人のいない画面をまず映し、そこに人が現れ、立ち去っていく。つまり、無の中に有を表現し、消えてしまう。小津は人の去ったあとの画面を二、三秒映し、そこに「もののあはれ」を漂わせるのだという。」(「二  季節ににじむ哀感」より)

c0193136_08092221.jpg

[PR]
by k_hankichi | 2018-04-12 07:17 | | Trackback | Comments(6)