昨日の朦朧とした買い物のなかから、1枚を聴き始めた。『ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル』。

自分はこれまで、迷いながら、ここに敢えて入り込まなかった。でも、これを聴いて、自分の傲慢さを恥じた。この胸の奥に沁みこむ、悲しさと優しい気持ちが合わさったような響きは、何なのだろう・・・・。

ディヌ・リパッティが、不治の病にとりつかれ、1950年の12月に33歳の若さで亡くなる直前に、医師の反対を押し切って、ブザンソン音楽祭で開いたコンサート(9月16日)。衰弱しきった身体でありながら、かたくなにピアノに向かい音を奏で始める。

本人も、家族も、聴衆も、すべての人たちが、これが最後の演奏になることを知っていたという。最後に伝えようとした音楽。リパッティが選んだ最後の曲。それをいま、ここに聴く。これに耳を傾けていると、自分がリパッティを目の前にして会場にいるような気持ちになり、寡黙になり、吸い込まれていく。

ものすごい音魂。ライヴ録音というのに、聴衆の咳の一つも入ってこない。みな、固唾を飲んで聴き入っている。祈るような気持ちで、彼の華奢な身体と指先を見詰めている。

■バッハのパルティータ 第1番 変ロ長調BWV825
このメヌエットの章では、天からなにかが舞い降りてくる。

■モーツアルト ピアノソナタ第8番 イ短調 K310
悲しみが昇華されるとこうなる。これは、大学時代の音楽鑑賞会(MRKという)の研究会で、初めて聴かされた演奏だった、ということに気付いた。その時の驚愕と感動が蘇った。いのちを希求する心、はかなくも消え去ろうとする息吹。そのはざまにあることを知る。

■シューベルト 即興曲 第3番 変ト長調 D899-3、第2番 変ホ長調 D899-2
ここにシューベルトを持ってきたのは、彼の思い入れだろう。ショパンとモーツアルトの間は、彼にとってはシューベルトなのだ。ああ、そうなんだよね、とその気持ちが分かる。

■ショパンのワルツ集(13曲)
最後はショパン。病身をおして、こんなにも、軽々と、そして、明るい響きを奏でられることには、もうなにも言うことができない。揺れ動くテンポには、彼の気持ちの揺れ動き、聴衆や音楽や、この世界との別れの気持ちがある。フレーズとフレーズの合間に、ちょっとした音の空白ができるとき、背筋には戦慄がはしる。

どの演奏も素晴らしいのだが、第5番 変イ長調 作品42 「大円舞曲」の奔放さと繊細さが重なるものが好きだ。

短調の曲のいくつかは、ことさらあっさりと弾き終えようとする。第7番 嬰ハ短調 作品64-2 は、短調に感じられない。第10番 ロ短調 作品69-2や第12番 へ短調 作品70-2もそうだ。短調の旋律はできるだけさりげなく、一方、その合間に織り込まれる明るい曲想の部分については、そのひとつひとつを大切に残そうとしているのではないか。でも、第3番 イ短調 作品34-2は、さすがにそうは出来なかった。沈痛な音階は、ディヌ(もう、彼のことをそう呼ばせてもらおう)の気持ちをあらわした。

最後の演奏は、第1番 変ホ長調 作品18 「華麗なる大円舞曲」。これがこの世を去ろうとしている人の演奏とは信じられないほどの、すさまじいエネルギーだ。そして、拍手のあとに、ぼくは、ため息を深くゆっくりと吐かざるをえない。

実はこのコンサートでは、もう1曲を予定していたそう。ワルツ第2番。この曲は、とうとう力尽きて演奏できなかった。そのことを知るだけでも、なにを言葉にしたらよいのか分からなくなる。

彼が、このコンサートで、生と死のはざまで伝えようとしたことは何か。

ディヌのことを、しばらく考えたいと思う。

ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル

リパッティ(ディヌ) / EMIミュージック・ジャパン

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by k_hankichi | 2010-07-19 10:58 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)