今日が吉田健一の命日だということを、調べ物をしていて初めて知った。1977年のことだから、僕がまだ高校生のときになる。
三年生だった僕は、運動部の現役最後として夏合宿やら練習に明け暮れ、受験勉強もその合間にしたりして(とは言え殆ど身に入らずに)、暑い毎日を過ごしていた。
吉田さんという作家・文芸評論家の存在を全く知らずにいた、いわば愚鈍である。
今から思えば、もっと早くから彼の文学に親しみその真髄か、あるいはその欠片でも理解していれば、それから挑む大学として文学とか哲学とかを志していただろう。
この41年間の取り返しはもうつかない。
W. W. ジェイコブスの短篇小説『猿の手』(The Monkey’s Paw)の世界ならば、猿の手のミイラ(三つの願いを叶えてもらえる)を使うことを考える(この小説は実におっかなくて、今でも思い出すだけでぞっとするけども)。
まずは高校生時代のそのころに戻らせてもらう願いを掛ける。しかし、そうするとやはり、その時代の僕に会うのは、おじさんになった僕で、若い彼にどうコンタクトするのか切っ掛けが掴めない。
何とか切っ掛けが掴めて、そして吉田さんの小説を教えてあげたとしても、それを共に楽しむ友人は居ないから、本は放ったままになってしまうだろう。
僕の今の親友は、そのころ多分、夏目漱石が生まれた早稲田の喜久井町の下宿にいるはずで、彼に頼みにいってもよいが、しかし彼もまだ吉田健一の小説は読んでいないのではないのか。本を楽しむ友が居なければ、興が乗らないのは当然だ。
だから、二つ目の願いとして、無理矢理でも二人それぞれに読むようにさせて欲しい、ということを頼むことになる。
読んでくれることになるだろう。しかし、喜久井町の友人とは高校も別で、実はだから互いに知らない者同士。三つ目の願いとして彼と秋葉原の石丸電気のレコード売り場で出会うことを頼むことになる。
しかしだ。会えたとしてその吉田健一を楽しむ関係になってくれるのか。
第一、願いを全て使い果たしてしまうから、おじさんの僕は現代に戻れなくなる。良いのか?
だんだん分からなくなってきました。
■重宝して使っている伸縮する「孫の手」。おもむろに眺めていたら「猿の手」のように思えてきてこんな妄想になってしまった。