「群衆の時代」はまだ続いているのだと思った。読み始めた映画評論集『映画とキリスト』(岡田温司、みすず書房)のなかで、著者はイエス・キリストを罵倒したり石を投げつけたりする群衆、あるいは兵士たちによってキリストが拷問されることに歓喜をあげる群衆に関して、次のような一節を引用している。
“それよりも関連が深いと思われるのは、フランスの心理学者にして社会学者、ギュスターヴ・ル・ボンによる「群衆心理」をめぐる議論である。1895年に上梓されて大きな反響を呼んだ同名のタイトルの本のなかで、著者は、到来しつつある時代を「群衆の時代」と名づけ、操縦者や先導者によって暗示誘導されるようになる群衆の心理にメスを入れたのだった。感染、衝動、過激化、反復、同一化といった概念がル・ボンの分析においてキータームとなるが、まさしくそれらはデュヴィヴィエ作品においてイエスを十字架にかけろと叫んだ「群衆」に当てはまるものなのである。”(「II サイレントのイエス」より)
僕たちは、大概において操縦されている。政治家たちだけでなく官僚。そして時代のファッションを創る人々、さらに報道者たちによって。
イエス・キリストの磔に同意してしまったのは群衆。そこに導いていったのは施政家たちであり、最たる悪はそこにあるだろうにも関わらず、結果的にその悪を見破れず糾弾できずに同意した。