吉田喜重による『小津安二郎の反映画』(岩波書店)を読了。小津の作品『小早川家の秋』を批判し、小津さんらしくない映画であると発言した吉田さんである。そんな二人は、その直後の松竹大船監督会の新年宴会のなかで、黙って酒を酌み交わしつづけたというから、吉田さんは相当にアンチ小津なのかと思っていたら、真逆で驚いた。
遺作となった『秋刀魚の味』について次のように書いている。戦争中の部下に中華ソバ屋で偶然に会った時のシーンについて。
“われわれが”過去を思い出すとは、戯れにすぎなかったのである。それが懐かしい記憶であっても、美化された追想であっても、人間はそれを二度と生きることはできない。それでは、疑いようもなく生きているはずのこの現在がどうかといえば、それとても限りなく曖昧なものでしかなかっただろう。戦争が眼の前の現実であった時代には、それがなんであるかを知らず、逆上してただ錯乱するだけであり、それを理性的にとらえる心というものを持ちあわせていなかったのである。このように人間はいま生きている現実、この現在をついに知りえず、明確に語ることはできない。そして過去は自由気ままに思い返すことができたとしても、われわれはそれを二度と生きることはできない。過去と現在よりともに隔てたれ、断ちきられながら、ましてや道の未来をみとおすこともできずに、それでもじゅううbんに生きてゆけるのがわれわれ人間にほかならなかった。”(「反復とずれの果てに」より)
吉田監督は、自らが監督した作品については、解説や説明を一切しない人だという。小津安二郎もそうだった。しかしそれは作品だけが伝えたいことを伝えるという、映画監督であることの本領をしっかりわきまえていたからこそなのだということが、これだけの映画論を語れる吉田さんに接してみて改めて分かった。
名監督、おそるべしだ。