これが「郷愁」なんだろうか。あるいは単なる「懐かしさ」なんだろうか。
これまで暮らした神奈川の家の外観写真がその地から送られてきて、それらを見た瞬間、胸の奥からじんわりとしたさざ波のような音が伝わってきて、身体じゅうに溢れた。
およそ20年。
なんだそれだけかと思ったのだけれど、振り返ってみれば、社会人生活の半分以上を、また、人生のおおよそ三分の一をここで暮らしたことになる。
初めてその家を観た日。
初めてそこに引っ越した日。
家の前の坂を、小さな家人の手を引いてその母親が歩いているところに遭遇した日。
その家人が初めて自転車に乗れるようになって、家の前の道路を、行って帰って行って帰ってを延々と繰り返していた日。
怒られた家人が行方をくらまし、心配になって探したがどこにもおらず、結局隣家の車の後ろに隠れていた日。
二階の陽だまりの中の午睡。
さまざまな人々の出入り。
沢山の笑い。
沢山の歓び。
いくつもの不安。
いくつもの諍い。
入園、卒園、入学、卒業、就職の繰り返し。
新しい家に比べれば住みにくく、そして田舎とも言ってよい不便な場所にあった。しかし想いと感情は、物理的な大きさや構造とは無関係なのだ。
無尽蔵の記憶と喜びの軌跡の宝庫。そのことに、ようやく気付いた。
ありがとう、おつかれさま。