友人から、『第三の男』の最後のシーンの解釈は、このようにもあるよ、と教えてもらった。松岡正剛さんのブログの言葉だ。→http://1000ya.isis.ne.jp/0844.html次のようにしるされていた。そして、僕は不覚にも、男と女の愛というものが、いかなる罪悪をも超えるほどの強さをもっている、ということを忘れていたことに気付いた。「物語というものは常に勧善懲悪」という訳ではないのだ。
決定的な違いは有名なラストシーンに劇的に集約された。原作では、警部とともにハリーの埋葬を終えたアンナが誰にも挨拶せずに並木道を歩き始めると、警部に車を勧められたマーティンズがこれを断ってアンナを追い、やがて二人が肩を並べて歩きだす。「彼は一言も話しかけなかったようだった。物語の終わりのように見えていたが、私(警部)の視野から消える前に、彼女の手は彼の腕に通された」というふうに終わっている。
ところが、よく知られているように、映画では警部とともにマーティンズを乗せた車が、いったん冬枯れの並木道のアンナを追い越し、しばらくしてマーティンズが降りる。カメラが並木道をまっすぐに映し出すと、遠くにアンナが見える。マーティンズが道端でそれを待っているあいだ、カメラはしだいに近づくアンナと舞い散る枯れ葉を撮りつづけているのだが、マーティンズの傍らを過ぎるアンナは一瞥もくれずにそのままカメラに向かって歩いていって、そこでチターがジャランと鳴って、幕切れなのである。
グリーンはこのラストシーンの変更を、「これはリードのみごとな勝ちだった」と脱帽した。