カメラマニアではないので、ライカのことは外見のデザインの素晴らしさぐらいでしか知らなかった。そして日本の戦後のカメラ事業の隆盛がどのようにして成り立ったのかということも、もちろん知らなかった。そういうレベルの僕なのだけれども、小説的に書かれたこの本はドキドキするほど胸が昂った。
ライカが技術者の魂に火をつけた。コンパクトカメラでは、ライカの偉業を超えることはできず、しかし新たな路線(一眼レフ)に活路を見出し、そこで世界の人々の心を掴んだ。日本はそうしてカメラ大国になったのだけれど、カメラ設計者の胸の奥には「ライカ」を崇拝する気持ちが今も深く刻まれているという。
名機として今も誉れ高いライカM3(1954年)について、著者は次のように記している。
“シャッターも革新的だった。一秒から一〇〇〇分の一秒までが同じダイヤルに等間隔で刻まれ、それが露出計と連動する。シャッターはフィルムと一緒にレバーで巻き取られるが、手に伝わるその感触は軽くさわやかである。それにシャッター音がすばらしく、パルナック・ライカ以上の仕上がりである。ファインダーと距離計、これがまたすごい。日本の技術者はこれを見るだけで戦意をくじかれるほどよくできていた。軍艦を取りはずすと、そこには小さなレンズ、プリズム、精密な機械部品などがぎっしりと詰まっていて、まるで宝石箱をのぞき込んだようだった。カメラをここまで測定器のように難しくして商売になるのか、という疑問はまだ二十代だった私にはなかった。しかし、これと同じものを作れと言われても無理であることは即座にわかった。技術者なら、この測定器を頭に乗せたようなカメラを見て、それまでの自分に大いなる徒労感を覚えたはずである。”(「第7章 ライカM3の偉業」より)
さてそんなライカの設計手法はどのようなものだったのか。戦後、アメリカを経由してライカの設計図面が手に入りそれを閲覧した際の感慨が記されている。
“ライツ社の設計者たちがウェンツラーのライツ社で、エンピツの芯を尖らして一枚一枚丹念に描き上げた図面を見てあらためて感じたことは、ライツの設計図面は、ものの形に寸法が記入されているだけの日本の図面とは大きく違うということだった。ライカの図面には、そのパーツの現場での加工のやり方がこと細かに指示されていた。それはマイスターが取り仕切る現場の技術、加工技術が実際的であるうえに合理的であることをよく伝えていた。日本の現場の職人は自分の技術をひとに教えないし、彼らのやり方は自己流が多かった。また設計者側も製造は現場まかせにしていた。”(「第8章 日本カメラの先遣隊」より)
なるほどなあ。製造工程まで良く知り尽くした設計図。エンジニア稼業をやっている身の上なので、その凄さが良く分かり、そして自らの実力に照査してとても身に沁みる。
カメラ史の本と思って雑に読んではならない、昭和の日本の技術者の血と汗の挑戦の記録だった。