エッセイなのかなと読み始めて、暫くしてからそれが小説なのだとわかるその瞬間が心地よい。『その姿の消し方』(堀江敏幸、新潮社)もそうだった。
学生時代にフランス西南部の内陸寄りにあるM市の古物市で偶然手に入れた一枚の古い絵はがき。そこには几帳面な字でぴったり十行に収めた詩が書かれていた。そこからこの物語は始まる。
彼はその絵はがきの謎を解き明かしたくて、機会あるごとに古書店や市場や人々に接していく。それがアンドレ・ルーシェという人のことだと朧気ながらわかり始め、そして赤い糸が手繰り寄せられるように、物事がつながり始めるかに見えてくる。
繋がっていくかと思えば、それはそうでもなく、またあちらにこちらに、彼の、いや僕らの場所やそして時間までもが、前後左右し始める。途切れるかと思うとそうでもなく、僕らの生きる時間、生み出す関係というものは、そもそもそういう程度のものなのだということに気づかされる。
そうかと思えば、パリで宿泊しているホテルが北アフリカ人による経営で、そこに隣接するカフェでクスクスを楽しむシーンが出てきて思わずにやりとさせられる。僕が仕事でイスラエルの地を訪れた際に初めて知った、あの途方もない旨い味のことを、その舌の先でざらざらと心地良く弾け踊る感覚が蘇るほどに描かれているからだ。
“読むという行為は、これはと思った言葉の周囲に領海や領空のような文字を置いて、だれのものでもない空間を自分のものにするための線引きなのかもしれない。詩でも散文でも、この方向で答えを見出そうと読みを重ねているうち、差し出されている言葉のすべてが、しだいにいわくありげな、解釈につごうのよい顔つきになってくる。言葉が思念を誘い出すのではなく、こちらが言葉に幕を掛けたり外したりしながら錯覚を生み出そうとしているだけなのに、私たちはそれをしばしば高尚な読みと称して納得しようとする。”(「黄色は空の分け前」より)
なるほど、と思う。そして、このように小説から抽出して、僕が自分と呼応するかのように歓喜してしまっていること自体も、この作品の主人公が「高尚な読みと称して」ということなのだと気づく。
しかしいずれにしても、堀江さんのこの小説は、フランス近代音楽を聴くように、寄せては返し、返しては寄せる水の戯れのようで、だから僕は例え作品に結末がないのだとしたとしても、それはそれでよいのだと納得した。