日本では推理小説は直木賞が得られるレベルのものではない、とされていた時代があったということを初めて知った。昭和40年代初頭の頃までのことだ。
僕は小学生の後半の頃から読書が日課のようになっていて、コナン・ドイルの作品は愛読書になっていたが、まさかその頃に、ようやっと日本の作家による推理小説が認められ始めていたのだとは、今のいままで露知らずだった。
小説『四重奏(カルテット)』(小林信彦、幻戯書房)は、そういう日本の推理小説家の苦節を描いたオムニバス形態の中篇集だった。
特に良かったのは、「夙川事件 -谷崎潤一郎余聞-」という作品で、彼の世界に興味がある癖にどうしても一歩踏み出せない自分の心が読まれているかのような、何か種明かしされている気分になるものだった。
時代は一世代弱違うのだけれど、日比谷映画(三信ビルの斜め斜向かい、いまの日比谷シャンテ)に毎月のように行っていた自分の高校生時代の姿にも重ねて読んでしまった。
“六十九歳の谷崎は元気で、翌日、出版社との打ち合わせを済ませ、正午少し前に日比谷映画劇場に<問題の映画「悪魔のような女」>を観に行く。熱海では洋画が観られないので、<たまに上京する機会を待って ーと云うよりも、予に関する限りむしろ演劇や映画見物を主たる目的として状況することしばしばなり。>と告白もしている。もっとも、当の映画の方はスリル本位ゆえの<多くの不自然>があると指摘し、<ニコル扮するシニョール・シニョレの異常に残忍な感じのする風貌に惹かれたが>と俳優を認めている。谷崎がこの映画を観たのは八月九日であるが、私は七七月三十一日に同じ劇場で同じ映画を観ている。同時代性というのは、こうしたことである。”
ここでの時は昭和三十年のことであり、「私は」というのは小林信彦そのもののことだ。一方の谷崎は、この体験をもとにして、「過酸化マンガン水の夢」という作品を書き表している。
ああ、青二才だった僕は、当時こんな映画を観ることもなく、そして今になってさえも観たことはない。
小林のこの中篇は、このあと江戸川乱歩であるとか横溝正史との関わりを綴ったあと、以下のように唐突に終わる。見事な終わり方だと思った。
“三年と少し経った昭和三十七年(一九六二年)五月末に、棟方志功の装釘・板画の「癲癇老人日記」が世に出た。一夜にして読んだ私は、谷崎の晩年の傑作だと昂奮した。七十六歳の老人の作品とは思えなかった。フットフェティシズムは、大正十五年の「青塚氏の話」のスクリーンに映る女優の足の裏につながっていた。その年の暮れに私は会社をやめた。やめさせられたというべきだろう。それまで西久保巴町には毎日通っていたが、東京タワーを見上げたことは一度もなかった。そんな余裕がなかったのだ。”
小林さんの青春の後半の濃度の濃さに、ただただ驚き敬服する。これは挽歌だ。僕にとっての青春時代とは、一体どんなものだったろう。吐息をつきながら、あたまのなかで走馬灯が回り始めていた。