思わずじんとこみ上げる小泉今日子論・・・『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』
『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(助川幸逸郎、朝日新書)は、ページを繰るたびに胸が高鳴り、そして思わずじんとこみ上げるものがあった。
まずは冒頭の次の記述に涙が出そうになる。
“小泉今日子のエッセイを見ると一つの特徴に気づきます。本書のなかで繰り返し触れることになりますが、「失って取り戻せないもの」に、小泉今日子は非常に敏感です。亡くなったいとおしい人々のこと。かつては自分に宿っていた「少女性」。それらに筆が及ぶとき、彼女の紡ぐ言葉にはひときわ力が加わります。失われていくものを引きとめられない場合があり、一度失われたものはそのままの姿では戻ってこない。小泉今日子は、そのことを誰よりも分かっています。だからこそおそらく、「変わっていくこと」に異議を見つけようとしている。そうすることで、「失って取り戻せないもの」への執着を絶とうとしているのでしょう。”(「はじめに」から)
そして次のようなことも凄い。
“私生児だったモンローほどではないにせよ、小泉今日子も、順境の中で成長したわけではありません。そこで感じた孤独を、誰かに愛されることで埋めようとせず、「やっぱりそうだよね」と「人生の前提条件」として受け入れる - そうした「自分の置かれた状況を見極める力」が小泉今日子には備わっている。この「自分を見きわめる力」が、小泉今日子の「らしさ」を支える大きな要因の一つです。”(「第1章 小泉今日子が”女の子”に支持された理由」から)
若いころ、小泉今日子の『艶姿なみだ娘』や『なんたってアイドル』に魅せられ、ファンになっていった自分の気持ちの理由が、すべて解き明かされているような気がして、目から鱗、というのはこういうことなのかと思った。