友人に教えてもらって、すぐに買い求めて楽しんだ。『小津安二郎への旅 ‐魂の「無」を探して‐』(伊良子序、河出書房新社)。著者は、明治の詩人・伊良子清白の孫だ。
昨今に出される小津本の内容の深さ豊富さといったらなく、学生時代からずっ憧憬してきたこの監督が、ここまで持て囃されて、逆にちょっと恐縮するような面持ちだけれど、そこにさらに加わったのが、この足跡をたどる紀行を入れ込んだ構造の書だった。
紀行も面白かったのだけれど、僕には次のような記載が良かった。
“もっとも小津映画には、よく動き回る芸達者も出演している。「東京物語」では杉村春子や東野栄治郎がそうである。後年の「浮草」や「小早川家の秋」に出た中村鴈治郎なども多動型の名優だ。「小早川家の秋」で鴈治郎の愛人を演じた浪花千栄子もそうだった。そのため、「浮草」や「小早川家の秋」は小津映画としては「隠された部分」が少ない作品になった。「東京物語」は違う。杉村春子らの多動型の芸を笠智衆や東山千栄子らあまり動かない俳優が受けることで、深みが出た。「東京物語」にはあわただしい日常や喜怒哀楽の起伏を吸収する“核”があった。”(Ⅱ「東京物語」その後 から)
隠された部分をいかに作るのか。ということが小津さんが元々強く意識してきたことなのだ、ということが分かったと同時に、多動型の素晴らしい俳優を前にして、それが生み出す創造的なるまでの世界を前にして、小津さんはとても圧倒されてしまったのではないのか、と思った。
自分にはないものを、人は求める。そういう人のことを、人はひそかに好きになる。そういう俳優を前にして、ただただ絶句して、彼らがやりたいようにやらせてしまったというような気持ちが良く分かる。