小池昌代の小説『たまもの』(講談社)を読んだ。捉えどころのない、夢遊的な、しかし、意識のある下で、いくつかの出来事がしっかりと進んでいる、そういう感じの小説だった。
学生時代の男友達が付き合っていた女との間にできた子供・山尾を、あろうことか引き受けることになり、仕事をしながらも、その子供を育ていく。その過程で、さまざまな男たちと出逢う。昔の知り合いだったりもするし、ひょんなきっかけでそのような進展になっていったりする。
主題は女からみた男であり、しかし血の繋がっていない子供が、そこにのめり込むことに歯止めをかけている。アンバランスのバランス。
“子供っていつも、いきなり、とても、抽象的なことをいう。ただ、きらきらしたものって言われても、目的も何も知らされていないわけだし、例示もないわけだから、言われたほうは困るよ。物事を整理し、時間軸に沿って、自分以外の者に説明するという能力がないんだ。やつらには時間というものがながれてないんじゃないか。いつだって、「今」しかないので、過去にこんなことがあり、それを踏まえて今があり、だから、未来のために、いま、何をすべきかというふうに、一連の流れのなかで、物事を考えられない。いつ時間の区切りがわたしのなかに生まれたのだろう。思い出せないけれど、そのとき、わたしは大人になったのかもしれない。”
そういう表現があって、まさにそうだよなあと思った。ちょうど先ごろに観た映画『6才のボクが、大人になるまで。』のことを想いだした。
子供がいるからこそ、狂わしい世界に落ち込まない。まさにそういう意味での「たまもの」ということなのか。