太宰を舐め尽くし、穴が開くほど読む小説『太宰治の辞書』
太宰を舐め尽くし、穴が開くほど読む、ということの凄さに脱帽した。『太宰治の辞書』(北村薫、新潮社)。
僕も学生時代は、太宰治に傾倒し、じぶんが太宰ではないのかと思うほどのものだったのだけれど、北村さんのこの書を読めば、そんなことは何百年も早いのだ、いや、そこには到底到達しないのだ、ということがわかる。
悔しい、口惜しい、ということを通り過ぎて、ただひたすら平身低頭する。
『女生徒』という作品から、ロココ料理という部分を抜き出して、その描写はどこからきているのか、ということをひたすら探究する。太宰のその作品の部分は、以下だ。
“ロココといふ言葉を、こないだ辞書でしらべたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されてゐたので、笑つちやつた。名答である。美しさに、内容なんてあつてたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまつてゐる。だから、私は、ロココが好きだ。”
主人公は、このロココという言葉を引いた辞書は、どの辞書だったのかということを探していく。さまざまな探索のあと、さいごは群馬県の県立図書館まで赴こうとする。
その途中、つぎのようなシーンがある。
“やがて、大きな橋にかかったので、
「これは・・・」
というと、
「大渡橋です」
ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より
直として前橋の町に通ずるならん。
朔太郎の「大渡橋」の冒頭だ。自註にいう。<大渡橋は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鉄橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋をわたりて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその尽くる果を知らず。冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり>。朔太郎の書く文の魔力は、註にも満ちている。>”
太宰を探すために、朔太郎や、その他あまたの小説家の事柄も同時並行して紐解く。深くため息が出る。
ここまできたときに、この惣社という街が、新前橋の駅の次にある、群馬総社駅の近隣のことだと、僕は悟った。そこは、僕が中学1年生の時、級友らと古墳を探しに廻った場所。東京から出かけた僕ら4人組の小さな冒険の記憶が蘇った。
にじにじするような渇望をもとに探究する主人公と自分を対比して、がっくりと肩を落としていただけに、僕の軌跡と、ここでちょっとだけ交錯して、それだけは嬉しかった。