週日の繁忙から解放され、小雨の降り行くなか街角へシベリウスの音盤を探し求めに行く途上である。ついでに、今日封切りされる映画を観ようか。
そんななか、あんなに馴染まなかったヴァイオリン協奏曲が、すうっと心に落ち始めていることに気づいた。
外の事象に批判的なあるいは問い詰めるような心では何も沁み入らない。自分の側も殻に閉じて防御していては融和していかない。そういうことなのか。
アンネ=ゾフィー・ムターによる演奏は、濃厚な厚岸の牡蠣をビブラートの舌で味わうようなもので、豊かに連なる海の昆布森のようである。節回しは演歌のようで、これはだから海の女の漁り火恋歌だ。イェ~ん、イョっ、と節回しが冴える。
セルゲイ・ハチャトリアンは、寒空に一人佇む一本の凛とした木だ。朴訥とした木だ。
ブログで知った人によれば「フィンランドの風景が、心象風景としてはっきり浮かんでくる」ものの一つのようだ。フィンランドには行ったことはないのだけれど、むかしスウェーデンのテービーという町(ストックホルムの近く)を訪れたことがあり、平原の先に見える森のことを思い出した。
カミラ・ウィックスによる演奏は、晩年のシベリウス自身からも絶賛されたというものだそう。音程は少し定まらなかったりするのだけれど、蠱惑的な響きがする。イングリッド・バーグマンの映画のなかでの眼差しや情景が浮き出てきた。