置き忘れることが多くなって・・・しかし大切な郷愁のことだけは忘れたくない
日曜の午後は、外出したついでに団子屋に立ち寄って、みたらし団子やら苺大福やらを買い求め、そしてそのあとは、それらを絶対に離すまい、とちょっと緊張していた。短い区間ながら電車とバスを乗り継ぎ、無事に家に着いてホッとした。
緊張したのには訳がある。最近、外に出かけると、ものを置き忘れてしまうことがあるからなのだ。持っていたはずのものが手元にない。記憶を辿っていき、その日の行動やシーンを思い出してみる。そして、あ、もしかするとここかもしれない、と閃きその度に、電話をしてみて確かめてみる。「ああxxさん、〇〇のことですね、有りますよ」、と言われ安心する。
これならば、いくら忘れ物をしても大丈夫かもしれない、とまで思うのだけれど、置き忘れたことにずっと気付かないということもありえるので、やはりこれは問題だ。
■コンタクトレンズケースとメガネ・・・出張先の宿に忘れたのだが、メガネがなくて家では困った。むかしのやつを戸棚の奥から探し出して掛けてみた。周囲は全然気づいてくれないのでちょっと物足りない。若かったころの自分に戻ったような気分でちょっと嬉しかったのに。
■パソコンのプリンター用のインク・・・これは昨年暮れのこと。年賀状を出しに行くついでに、買ったはずだったが、家に帰ってくると手元にない。年賀状の続きを印刷できない。さては郵便局のポストに入れてしまったのかと大慌てしたが、インクを買った家電店のなかで立ち寄った腕時計コーナーに忘れていた。鮮魚コーナーであれば、梶井基次郎の『檸檬』みたいで恰好良かったはずなのになあ、と思った。
■出たばかりの雑誌『群像』(2015年2月号と文庫本)・・・まさに土曜日に有楽町に出かけたときに、あるお店に忘れていた。いつ受け取りにいけるのかわからないので、地団駄を踏んでいる。雑誌のなかにあった「絵本 御伽草子」は、町田康、堀江敏幸、青山七恵、藤野可織、日和聡子、橋本治によるオムニバス形式。寝る前にさあ続きを読もうとしたらどこにも無い。狐に摘ままれた気分で、記憶を辿り、ようやくありかが分かった。お店の兄ちゃんが、「町田康の作品、ガチに良かったっすよ」とでも言って返事をしてくれればなあ、とちょっと惜しかった。
忘れまいとした、みたらし団子と苺大福。もしどこかに忘れたとして、いつ取りに行けるかわからない場合どうしただろう。「勿体ないので食べてください」としか言いようがない。
しかし今の時代、赤の他人が置き忘れた食べものを食べてくれるのか。またファーストフードへの異物混入やら、毒入り何某の騒ぎまでもがある。これが昭和30~40年代(僕の子供時代)のことであれば、美味そうなものは寄ってたかって食っただろう。
人工甘味料チクロが発禁になっただけでも残念に思ったあの頃。味に飢えていた餓鬼の時代。たいせつな郷愁のことだけは忘れたくないなあ。