堀江敏幸の『象が踏んでも 回送電車Ⅳ』(中公文庫)を読んでいる。次の言葉に、じんときた。
“心の底から愛し、深く尊敬していたひとの口から出てきた、美しくはあってもすぐに消えてしまうような台詞より、意図した饒舌とも念入りな沈黙とも縁のない、ふだんどおりのやりとりからこぼれ出て、いつのまにか身体いっぱいに広がっていた一語のほうが、ずっとありがたい、ということである。
(中略)
掛ける言葉、賭けられる言葉は無限にあるのに、救われたという感触をもたらすまで育っていくい言葉は、じつに限られている。残りは忘却のなかで、みごとに処理されてしまう。おびただしい情報を扱っていながら、孤独を産め、るために一番必要な鍵がみつからないのと、それは同じ道理である。しかし、与えられた言葉は、情報は、処理するものではない。日々育てていくものだ。ホーフマンスタールがうたっているとおり、「釣針のように呑みこんで、泳ぎつづけて、いまだにそれに気づかない」言葉が、情報がある。うまく育たないことの多い、だからこそ貴重な未来の相棒を迎えるために、痛みをこらえて、その釣り針を心に残したままにしておきたい。”(「釣り針のような言葉」より)
年末年始のあいさつ文のいろいろを考えながらも、さて、僕にとってのそういう言葉って何だろう。いまこれから発しようとする言葉にはどれだけの意味があるのだろう。いまのこの姿は、表層的な状態のなかに、ただ単にたゆたうように遊んでいるだけなのかもしれない。そう思って、ちょっと淋しくなった。