中身を見なくても無条件に買い求める場合がある。片岡義男の芸術に関するエッセイがそうだ。そしてそれは決して期待を裏切られない。
『歌謡曲がきこえる』(片岡義男、新潮新書)は、ぼくが無意識に感じていたものが書き記されていた。ちょうど、ちあきなおみのことだとかをブログでやりとりしていたから尚更である。
“叙情とは、なにか。それは心象ではないか。適切に選ばれ、多少の驚きを喚起させながらつながっていく叙情の言葉の数々は、それをある人がヒットしている歌謡曲として受けとめたとたん、その人の心のなかで、それによって喚起された心象となる。”(「そこに生きた多くの人たち」より)
この例として、つぎのようなことも言う。並木路子の『リンゴの唄』は、歌い始められたその時代に、彼女がそういう人生を背負ってきたからこそ感銘をうけるというのだ。
“1975年末にその美空ひばりによる『リンゴの唄』が発売された。ひばりは38歳だった。彼女による『リンゴの唄』を僕は聴いてみた。ひばりの歌いかたそのものとして巧みに歌っているが、歌いこなすべきひとつの歌であり、したがって『リンゴの歌』への特別な思い入れはなにもない、ということが聴いているとよくわかる。そう断言する根拠はなにか、と問われたなら、次のように答えるほかない。人はその感受性の形成期において、人それぞれの形成期の背景となる時代から、さまざまなかたちと内容とで、深い影響をかならず受ける。”
ああそうなんだ、その通りだ、と感じた。僕にとっての叙情が心象を喚起する曲とはどれだろうか。
あの曲を置いてしかない。そう思った瞬間、心の奥底で、キュッと音をたてるのが聞こえた。
『夢の途中』(来生たかお)のことだった。