五味康祐の太宰論・・・『人間の死にざま』

みちのくの地をふらふら歩いていて古書店を見つけた。小さな店だ。その店舗の半分は古本、そしてもう片方を使ってギターやウクレレ、弦、ギター用のアンプなどの楽器を売っている。ちょっと風変わりな立て付けだ。書棚を眺めてまず初めに目についたのは『聖子』(神田法子)。彼女のファンである(あった?)友人のことが頭をかすめて、思わず買おうかなと思ったが踏みとどまった。その代わりに目についたのが、五味康祐の『人間の死にざま』(新潮社)。

太宰論がまず面白かった。

“自分の文学、これほど大切なものは作家にはない。しかし、その為に(覚えずとも)人を殺してさて自分にどんな文学が書けているのか、そう自問したときの自己嫌悪、居堪れぬおもい、遣瀬なさが『道化の華』一連に見られる。精神分裂症状を呈して見受けられる。したがって太宰文学は、人を殺めたところから生み出されたものであり、それなくして書ける文体ではなかったことを我が身の「過失致死」に徽して私は知った、そう言ってきたのである。いちばんわるいのは、好きでもない女とカッコよく心中でもしようという精神の弱さである。やさしさ、ナイーブ、どう表現してみた所で三島由紀夫サイドでなら甘えとしか見えまい。もちろん、そんな弱さや甘えが太宰文学を創った。甘えているだけの文学青年ならゴマンといるのだ。太宰は己れのその甘さの為に結果、人を殺めた。そこからはじめて彼の文学ははじまった、これがゴマンといる文学青年との決定的な違いだろう。私はそう言いたい迄である。”(「山下奉文 ― 義のために」より)

僕の太宰観とは、違うのだけれど、それでもこの人の観点の明晰さには舌を巻く。最近は、新聞やら書籍やら評論などのさまざまな場で、人の気持ちに配慮して、とか、あるいは、自分を悪く言われないように、というような感じの自己防衛的な表現に多くかこまれている気がしていたから、こういう直截的な、あるいは直観にものを言わした表現に接すると、却って清々する。

この五味さんの本、最初の四分の一が本の題名通りの『人間の死にざま』のエッセイ集で、あとの四分の三が実はクラシック音楽評論だ(『愛の音楽』 ―西方の音―)。この評論というか、頑固クラッシック辛口批評もとても痛快で、みちのくの夜と、そこからの帰途の時間が、あっという間に過ぎ去るほどだった。

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人間の死にざま (1980年)

五味 康祐 / 新潮社

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Commented by maru33340 at 2014-11-22 07:51
あの独特の風貌を知る人ももう少なくなったじゃろなあ。
Commented by k_hankichi at 2014-11-22 09:00
知らない人も多いでしょうね。しかしいま読むと、とても新鮮な文章でした。
Commented by saheizi-inokori at 2014-11-22 10:59
「西方の音」は何に連載されたんだったかなあ。
五球スーパーに繋いだ蓄音機でレコードを聴いていた身には憧れの世界でした。
Commented by およう at 2014-11-22 11:20 x
聖子さんから五味康祐に(^◇^)懐かしい方に出会ったような感じです^^
Commented by k_hankichi at 2014-11-23 09:31
saheiziさん、五球スーパーと蓄音機。それでも良い音が出ていたのだと想像します。『西方の音』は『芸術新潮』に連載されていたもののようです。
Commented by k_hankichi at 2014-11-23 09:32
おようさん、はい、地方の古書店にいくと、びっくりするようなものがあるのだと思いました。忘れていた人に、ばったり道で出会う感覚。
by k_hankichi | 2014-11-22 00:12 | | Trackback | Comments(6)