遠くの地に足を運び続けていると、いつしか舌が研ぎ澄まされる
『旨いものはうまい』という本のことを思い出した。
「もしそれで旨いものは先づ体にいいものであるならば何かを旨いと思ふのは生きる喜びに繋ることであり、旨いものをまづくして食べることはないのみならず旨いものはこの喜びを通して精神にとつてもいいに違ひない。それでその意味から旨いものを探して廻るといふ理屈だつて付けられる。」(吉田健一)
みちのくでの仕事が多くなると、自然と日本酒を呑むことが多くなっていて、あまりその酒というものが好きではなかった自分が、時がたつにつれてこんなにも変わるものかと、あるところで気づいて驚く。米の酒の勘所が分かっている自分自身の感度を意識するのだ。
それは僕が鹿児島での仕事が多くなって、芋焼酎というものの臭さに閉口しながら飲み続けているうちに、ある一瞬から霧が晴れたように旨さの基準が分かったときのことに似ている。
そしてまた旅の往き還りに食べる駅弁の旨さの良し悪し、設計の巧拙に、自然体で気づいていくことにも似ている。
人は遠くに身を移していくたびに、あらたな空気に触れて、その行く先の土地にある旨いものに触れたりするのだけれど、その味の勘所が分からなくても一定の時間が経て或る線に到達することで舌が研ぎ澄まされ、いきなりプロフェッショナルなレベルにいつのまにか居る。
テキサスのポークビーンズのビーンズのみの盛り合せであったり、台湾の汁ビーフンの市井にある味の透徹さであったり、メイン州のロブスターのバター汁にまみれたプリプリ感であったり、もちろん酒であればジンであるとか、ウイスキーであるとか、ウオトカの勘所に気づくところであったりする。
いつしか舌が研ぎ澄まされる、そのことに気づく瞬間の目が覚めるような感覚を、これからも楽しみたい。