『優雅なのかどうか、わからない』(松家仁之)・・・The Beginningの予感
本のカバー表紙が、1967年のLime 誌のカバーを飾ったミア・ファローの写真で、その美しさにははっと息を飲む。Alfred Eisenstaedtによる(TIme & Life Pictures/Getty Images)。
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松家仁之の第三作目の小説『優雅なのかどうか、わからない』(マガジンハウス)のことだ。帰国する際の機中で読了。
この作品を一言で表すとすれば、「静謐な生活を超えようとする、時と場を貫く優しさと躊躇いの交錯」のようなものだと思う。
主人公の岡田匡は、自らが採った生きざまが原因で妻と離婚し、一人息子も米国の大学院に留学して、吉祥寺の古い日本家屋に一人住むことになる。そこは小津映画に出てくるようなたたずまいの家だ。その家は、匡が自由に改造してよいということになる。
そうやってひっそりと暮らし始める匡なのだが、ふとした偶然で別れた女・菅原佳奈と再会してしまう。年下の彼女とは終わった関係であったのに、心に静かなさざ波が立ち始める。躊躇いと意思(密かな切望)の淡い交錯。佳奈の父親の病気発症、息子の変化などがその合間に織り込まれ、しかし、匡はそれぞれを、静かに受け留めていく。
隠遁生活を抱いていた匡のなかに芽生える新たなる設計図。それは静謐を超え、もはや優雅とはいえない。あらたな愛の成就に向けた強い意思だ。
かつて観た映画の最後に”The End”の代わりに“The Beginning” と示されて終わったものがあったのだけれど、そういった感覚で終わる作品だった。