雑誌『新潮』の6月号は、創刊110周年記念特大号と銘打って、「今日から始まる文芸の未来」という副題がついている。なかでも「未来に届けたい一篇の小説」というコーナーで、青山真治が書いた次の文章を読んで、自分の気持ちと同じでとても嬉しくなった。
“舞台を金沢と言っていいものかどうか。他の作品における東京を現実とするといささか事情を異にする気がする。一応、内山という男の行動を追う緻密な描写があり、そこに骨董屋と呼ばれるメフィストフェレスのようなガイドがいて、金沢近郊に住まう様々な人々との遊行が綴られるのだが、どうも金沢の街こそが主人公のように思われてその鯨のような主人公の背中の上で酒を酌み交わしながらそれらの人物たちと問答を交わすのが大体の内容なのだが、『白鯨』同様これは一種の哲学小説、哲学という言葉が不味ければエチカ、エチケットについての小説と呼ぶべきかもしれない。”
もちろん、吉田健一の『金沢』を選んだものだ。
このあとに次の文章が続いていって、これまた作家の世界観をよく捉えたものだから、ますます嬉しくなってしまう。
“昨今流行語の「おもてなし」が気に入らない理由にこのエチケットがどうも感じられないということがある。立つ時、座る時、襖を開ける時、閉ざす時、迷路のような道を歩く時、水に反射する月影を見る時、畳に横たわる時、などなど、あらゆる<時間>それぞれに相応しいエチケットが峻然と存在することを人々との謎かけのような問答によって内山は明らかにしていく。”
僕の友人は、かつてこの地に住んだことがある。そのことだけでも羨ましいのに、近々また再訪するらしい。青山氏の一節に触れて、この羨ましさは何乗にも増えて留まることがない。