くたびれ儲けの谷根千と『シューマン 黄昏のアリア』(ミシェル・シュネデール)
今日は谷根千の一箱古本市に出かけた。ゴールデンウイークの始めとあって、凄い人出だ。人垣を掻き分けながら、古本を見て回ったが掘り出し物はない。とぼとぼと歩くうちに、根津神社でツツジが見ごろとある。訪れてみれば、そこも人波の渦だ。確かにツツジは見事で美しいが人の数のほうが多い。気疲れしてそこをあとにし、池之端の銭湯・六龍鉱泉で体を癒す。
今日の収穫は、往復の車中で読了した『シューマン 黄昏のアリア』(ミシェル・シュネデール、筑摩書房)。カスパル・ダヴィッド・フリードリッヒの「Mondaufgang über dem Meer(Moonrise over the Sea)」が表紙のこのシューマン論は秀逸。著者は1944年生まれのフランスの経済官僚だというからこれにも驚く。アマチュアの域を通り越して、孤独を核にこういった書をつぎつぎとしたためているそう。
シューマンの音楽について、著者は次のように記す。
“苦しみは対象に、あるいはまた性に結びついている。苦しみの起源はその対象存在そのものにかかわっている。痛みには対象がない。何か失われたものがあるというのですらない。痛みとは、痛みを苦しむことなのだ。シューマンの音楽は自動詞的である場合が多い。あるいは己自身の冷たさ、みずから遠ざかってゆく動きに押さえられて凍えてしまっているというべきかもしれない。シューマンの音楽はまるで自分に戻ってくるようだ。そこには真の意味での対象と主体の分化がない。音楽は、ただ自分自身と対話を繰り返すだけなのだ。自分自身の動きが働きかける対象であり、みずから消えてゆく動きが映しだされる。”
自己との静かなる対話。それがシューマンだと、改めて深く知った。
■Caspar David Friedrich, Moonrise over the Sea
From: http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Caspar_David_Friedrich_-_Mondaufgang_%C3%BCber_dem_Meer.jpg
■根津神社のツツジ祭り
■六龍鉱泉