『おたのしみ弁当』(吉田健一)を食べながら向かう、みちのく
夜汽車はたいてい遠く長く響く悲しき汽笛とともにあると思っていると、現代の夜汽車はそういう風情はなく、ひたすらに闇を疾走する怪物のなかから過ぎ去る外の街や山あいの明かりの点々を只ひたすら横目にするようなものになっている。
今宵もみちのくに向かっているが、いつもと違うのは『お楽しみ弁当』(吉田健一、講談社文芸文庫)をつまみ食いしながら揺れる旅であるところだ。
北を一人さみしく目指しているはずなのが、吉田さんの、この単行本未収録エッセイ集により、ものすごく幸せな時間と空間に浸っていることに気付き、それは友人が僕にこの新刊のことを教えてくれたからで、だから大層感謝している。
大概のエッセイは抱腹ものに楽しく、うふふと変な声を発してしまいそうになるほどで、北に向かっていることを忘れて竜宮行きだったかしらん、と思うほどだ。
例えばつぎのよう。
“・・・というふうに書いて行くと、吉田首相というのは実に立派な人物で、その内閣が続く間は何も心配することはないという意味に誤解されるかも知れない。粗忽も甚だしいものである。政治というものが低級で、一年先のことも解るか解らない(これはビスマルクの言葉である)、現実に密着した仕事であることは周知の事実であるが、それだけに我々自身の生活もその政治にさらされているのであって、政治家が一人や二人いたぐらいのことですむものではない。日本の政治が健全に行われるためには、少くとも吉田首相が行う程度の政治に対する批判力が政治に関する国民の常識になり、吉田首相程度の人物が何十人か、でなくても各政党に一人はいることが最小限度に必要である。”(「吉田内閣を弁護する」より)