世の中の或る部分を自分で構築しようとすることで生じる一つの悲哀
大崎善生が書くものを好きになったのはノンフィクション作品、『ドナウよ、静かに流れよ』(2003年6月 文藝春秋 / 2006年6月 文春文庫)だった。以来、いろいろな書き物を読んでいる。
彼の作品には、ある種の哀しみというものが、いつもその底流に流れていて、それは静かに流れているものだから、耳を澄まさないと時折なにのことだったのか分からなくなる。しかしやはり、そこにはある種の哀しみがあるのである。
『ディスカスの飼い方』(幻冬舎文庫)もそうだった。南米アマゾン流域に生息する熱帯魚・ディスカスの飼育に熱中する男、諒一が、由真という恋人を失う話だ。
彼が熱帯魚を繁殖させるための執着心は、人並み外れたもので、それはまさに「飼育の体系を学問にする」、「生態学をもとに育成手法として論理化する」というようなものだった。謂わば、人間の存在意義を紐解き構築していこうとする哲学者の探究心と執着心のようなものだ。
それを追い求める傍らで、彼は恋人の心を失ってゆく。物事に取り憑かれた男には恋人の愛が見えなくなり、やがて自分だけの世界だけが視野になっていく。
この小説を読んでいて怖くなってくるのは、趣味に走った男の哀しみを知るからではない。この男と同じような行動に、自分も嵌っている現実に気づくからだ。
音楽を聴き極めたい、小説を読み極めたい、美にのめり込みたい、そしてまた、このようなブログのようなものでも何物かを構築しようとしたい、というような心は、やはり、この世界の中の或る部分を自分で説明し、哲学の片鱗のようなかたちにしたいというような淡い希求があるからだろう。
主人公は、小説の終末で次のように言う。
“僕が恋人を捨ててまでディスカスの繁殖にこだわった理由は、それを取得することで得たいくつもの筋道を、世界に向けて提示できるのではないかということだった。ディスカスを知ることによって、いったいどのくらいの多くの他のことを知ることができることか。必要なのは解答なのではない。そこにたどり着く筋道なのだ。それは突き詰めていえば哲学と同じことである。未知なものを既知なものや言葉だけで説明づけていく、あるいはその方法の筋道だけでも提示する。哲学者が時間や存在や無をその標的にしたように、僕はディスカスを選んだのだ。”
自分もこういった追及心を持っている。このことは、いつかどこかで、何かを失うことに繋がってしまうかもしれない。そのことに対して警鐘を鳴らされたという意味で、記憶に刻まれた作品だった。