小津映画を魅入って居るほど驚きに包まれるだろう・・・『「東京物語」と小津安二郎』
友人が薦めていた『「東京物語」と小津安二郎』 (梶村啓二、平凡社新書)を読み終えた。小津映画を魅入って居るほど驚きに包まれるだろうと思った。
著者は小津映画を愛して止まないひとであることがひしひしと伝わってくる。しかしそのなかにも、文学を生業としているがこその深く見据えた洞察と解釈がある。すべてのシーンについて、あたかも昔話を子どもに読み聞かせたあとの母親がふと漏らすような、人生の真理がある。
次のような一節も胸をうつ。
“ 子供たちの失敗と冷淡とエゴに深く傷つきながら、そのことからそっと目をそらす。自分とかつての仕事仲間の男たちの敗北と孤独に取り返しのつかない時間の流れを感じながら、そのことからそっと目をそらす。心の片隅で、自分が自分を騙し、目をそらしていることにうっすらと気づきながら。
誰かに似ていないだろうか?
原節子演じる紀子である。義理の親への気遣いの域を超えて、無意識のうちに、次男の嫁という自分の役割を過剰なまでに破綻なく演じ、尊厳を維持できる自分の位置を守ろうと努める。その平山家の中での安定した自分の位置の根拠であった夫、その死という現実からそっと目をそらす。そして自分に嘘をついていることにうっすらと気づいており、その気づきをぼんやりとした痛みとして抱え込んでいる。
周吉と紀子は同じ種類の人間である。
そして、おそらくは、彼らを見ているわたしたちも。”
また小津映画を見たくなった。今度はデジタルリマスター版でである。