力が落ちているときに素直に入ってきた・・・『無力』(五木寛之)
今日は休みをとって、ほぼ一日中横になっていた。昨夕、医者で処方してもらった薬によって、扁桃腺の腫れは徐々に弱まりつつある。しかし身体の力は出ない。窓から見える青空は霞んでいるわけではないのに弱々しく、とても遠いところにあるようで、『智恵子抄』の智恵子はこんなふうに空を眺めていたのかなあ、などと思いが廻ったりしていた。
そんなときに手にしたのは、五木寛之の『無力』(「むりき」と読む、新潮新書)。予ねて友人から教えてもらっていたのだけれど、そのときは中身に馴染めず、冒頭だけ読んだだけにしていたが、今日は違った。心身の力が落ちているからなのだろうか、不思議なまでに、五木さんの言葉が素直に入ってきて読了してしまった。
「むりょく」と「むりき」の違いを次のように記している。
“無力(むりょく)は、漠然として頼りないという無力感から、自殺や社会放棄をしたりする人が出てくる。動きのとまった、後ろをむくばかりの姿勢です。
無力(むりき)というのは、無力(むりょく)の状態を認識して、揺れ続ける動的な生き方を肯定し、そのなかで何かを目指そうとする。前向きで、自在な姿勢です。
無力(むりき)の世界というのは、楕円の二つの中心を、楕円のどちらかに偏らずにそのあいだを浮遊しながら往還していく感覚です。それは一定の確固たる信念を持っていないと見えるかもしれませんが、自在な生き方でもある。”
次のような言葉にも、僕の心は呼応した。
“物事を固定的にとらえず、時代とともにブレながら生きる、それが人間のあるべき姿ではないでしょうか。(中略)あるいは「方丈記」に、
「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にはあらず。よどみの浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
とあるように、川の流れていることは変わりないが、水そのものは変わっている。人は誰もが大河の一滴、と考えてみるのです。”
無力(むりき)者の哲学、ブレることを非としない無力(むりき)の生き方ということについて、ようやっと分かってきた。