対談で、かわすわ はぐらかすわ そらええわ、吉田健一
『吉田健一 対談集成』(講談社文芸文庫)は、あっという間に読めてしまった。これは、対談ではなくて、酔談で、相手の質問に真正面から答えないわ、かわすわ、はぐらかすわで、これはいったいどういうことだろうと思った。
あの、著作集にあるような、吉田節が聞こえない。小説や論説、エッセイにおける書き言葉の吉田さんと、ここでの話し言葉の吉田さんには大きなギャップがある。
読んでいるうちに、ああ、もしかして・・・、と思った。恥ずかしいのである。この人は、人に本当のことを語るのが、実に恥ずかしいのである。
巻末に、長谷川郁夫が解説を書いていて、そのなかで、次のようにあった。
「吉田さんは、どうやら講演や対談を苦手とした、というより苦痛としたようだ。論戦を好まない、理詰めで窮屈な話題は敬遠したい。」
なるほど。彼には物事の本質が見えすぎていて、だからどうにも、酔った席においても、まじめな話をざっくばらんに、ということがむつかしかったのだな、と思った。小林秀雄よりも、河上徹太郎と仲がよくなったことも、そういう感性的な理由があるのかもしれない。
ところで、解説のなかでは、もうひとつ面白いことが書かれていた。柴田光滋という新潮社で吉田さんを担当していた人が、吉田さんの文章の特徴について、次のように洞察していたそうだ。
「『シェリイがシェリイといふものである以上』でもわかるように、その要諦は同義反復。『バタはバタの味がした』なんて具合に書く。問題は事の本質だけ。文章を書く上での禁じ手ではあるけれど、ただ一人、吉田健一においてのみ奇跡的に可能だった。」
おお~、核心を突くなあ!