『ピアニストのノート』(アファナシエフ)・・・もう音楽については書くまいと、一度は彼は言った
もう音楽については何も書かないでしょう、と出版社の依頼に対して言ったヴァレリー・アファナシエフは、東日本大震災のあと日本公演を敢行し、人々にちからを与えた。そしてこの本書『ピアニストのノート』(講談社選書メチエ)をしたためた。
作曲家と音楽、音楽と演奏家、演奏家とそれぞれを囲む世界についての深い深い思索の書だった。その思索は、作曲された時代、そして、そこから現在、現在から未来と行き来する。自分を投企し、そして帰ってくるものに耳を傾ける。
“解釈者=演奏家と、創造者=作曲家の違いはどこにあるのだろうか? つねにこの問題が還ってくる。他人の作品を演奏すると、そこから立ち直るのはむずかしい、そう私は思っている。作品が私の無力さを暴露してしまうのだ。私たちは他者の人生を、他者の思考を生きることを余儀なくされる―――さらに悪いことには、自分の意志でそうするのだ。・・・(中略)・・・創造者は作品を創造し続ける。たとえ作品が即座に世に出ることを望んではいない場合でも。自分の作品をしなっておくためには、抽き出しや倉庫があるのだから。だが演奏家はどこかで演奏しなければならない―――たとえ倉庫でであっても。”(第二部、p191)
そしてアファナシエフは、シューベルトの最後のピアノソナタ第21番変ロ長調D.960について、次のように記す。
“それに私も、どうすればこのソナタの心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう?大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。”(第三部、p233)
また、聴衆の音楽に対しての感覚の退化について、次のようにも言い放つ。これは誰のことを指しているのかよくわかっただけに、非常にショックだった。しかし、そういう自分の中にも違和感がなかったわけではなく、だからいっそうに、そのことに気付けなかったことに打ちひしがれた。
“さして美しくも醜くもない一人の女性が―――リストの『ピアノソナタ ロ短調』のビデオクリップを製作する。・・・(中略)・・・このカリスマ的女性ピアニストは、衣装を替えたり付けたりひげをつけたりパイプを吹かしたりして、ファウスト、メフィストフェレス、マルガレーテの三役を演じ分けてみせる。すると聴衆は言う。「何という個性、何という大胆さ、何という芸術家、何というピアニストなんだろう!」。ソナタの演奏がへたくそなことは言わずもがなだが、誰もそんなことは気にもしない。そもそも、ほとんど曲を聴いてはいないのだ。”(第一部、p109)
ああ、なんという衝撃の書なのだ。深く深く哲学は深耕し、なんどもなんどもページを行き来する。とても濃い日曜の昼下がりだった。
■以前、NHKで放映されたアファナシエフの番組については、以下を参照。
ココ→
http://hankichi.exblog.jp/16295924/