たしかに10年に一度の傑作!・・・『火山のもとに』(松家仁之、新潮社)
友人が「10年に一度の傑作だ」と褒めていた。小説であるのに、人ごとではないようなある種の懐かしさに包まれ、そして優しくたおやかな感覚にさせられる、そんな作品だった。
ストーリーと並行して、自分のなかに忘れていたとても大切な記憶が、すこしづつ滲みだしてくる。驚くことに、読みながらもそれが何なのかを分かりたくない、気づかずにそのまましまっておきたい、そんな気分につつまれる。しかし大切に隠してあった砂糖菓子を思わず食べたくなり、少しづつ齧って、うっとりとその昔の懐かしい情景を思い出していく。一ページ一ページを繰るのが惜しい。
感銘するのは、心のひだの描写、すこしづつ変化していく気持ちの流れだ。ほんの少しのしぐさから相手のこころを察する繊細。かすかに触れ合う指先を通じて、伝わってくる互いの鼓動。長回しの情景というよりは、空間のなかの心の動き、それも数秒間というような単位のなかでの心の動きを、実に的確に描写している。そして、時の流れとともに過ぎゆく人々の気持ちの必然性(ある種の「宿命」かもしれない)ということの存在を知る。
この小説では、いくつかの音楽が流れる。そしてそのたびに、「ん?このシーンでこの音楽なの?」と、その不思議なる組み合わせ(ある意味、唐突なほど)に驚く。たとえば、次のよう。
・台風の嵐のときに、「夏の家」で所長はベートーヴェンの交響曲第8番をかける。
・クラシックピアニストの彼女は、ルノー5を運転するときブラック・コンテンポラリーの曲を流す。
・採れたての野菜をつかった冷やし中華を食べたあとに、モーツアルトの管楽器が冴えるグランパルティータを皆で聴く。
・病に伏す先生のために麻里子が演奏して録音するのは、シューベルトのピアノソナタ第21番。
・先生が、車のなかで良く聴いている曲は、ハイドンの『四季』(第3部の「秋」)。
そのシーンを思い浮かべると、なにかの不整合がそこに存在している感じがし、しかしそこには、作家の実際の大切な記憶の欠片が潜んでいるのだと思う。
そして最後に確信する。中尾雪子は、「ぼく」(坂西徹)と村井麻里子のことを、確実に知っていただろう、そして、そのひたむきで静かな恋心に、「ぼく」は最後にきっときづいたのだろう、と。