『どこへ向かって死ぬか 森有正と生きまどう私たち』(片山恭一)
セカチュウの片山さんが森有正にこんなに傾注しているとは知らなかった。『どこへ向かって死ぬか 森有正と生きまどう私たち』(片山恭一、NHK出版)。
次のような森の言葉をひもときながら、片山は反芻する。
“人はここで自己につかまり、自己をつかまえるのである。だから人はパリで死ぬことが出来るのである。死ぬ、というのは生きる、ということでもある。しかしパリで死ぬ、ということを、あまり字義通りにとってはよくない。それは自分に生き、自分に死ぬ、ということであって、一人の人間ということであり、パリはそういうことを暗示する、恐らく唯一の不思議な町である。”(『木々は光を浴びて』)
確かに、パリという街は、人を自己と対峙させる。それは秋から冬の冷たい空気のなかでさらに倍加され、より深い淵のなかに突き進ませる。
ぼくにとっても、時間があれば訪れたい街はどこかと言えばパリであり、それは山奥の秘湯を一人で訪れたいときの気持ちに似ていて、さらには自分は経験はないのだがきっと禅寺に修行に臨むようなときもそうではなかろうかと思うのだ。