小津安二郎の映画『晩春』で、結婚するまえの、最後の親子での京都への旅の夜に、二人蒲団を並べて眠りにつくシーンがある。
このとき、壷だけの映像が何回か挟みこまれるが、これを指して、性的意味が込められている、とした評論を以前読んで、なにか釈然としない気持ちになっていた。自分の場合に当てはめても、あり得ない心境だから尚更かもしれない。
昨日から、保坂和志の『小説の自由』(中公文庫)を読み始めて、そういうことではない、ということをこの人は記している。納得した。少し長い引用になるが、次のようである。
“あの壷のカットにしても、観客は意味を考えてはいけないのではないか。もちろんここで言う意味とは、映画の筋や人物の心情を補完する意味とか、「ちょうどこの壺のように…だった」と読まれる隠喩的な意味ということだが・・・(中略)・・・そうではなくて、観客はそれが映画の筋と別に存在しているその原理や姿なり、あるいは、ただそれが存在しているというそのことだけを見ればいいのではないか。・・・(中略)・・・「ただそこにある」という風に考えることにすると書いた方の話に戻ると、小津の映画ほど、ほんの数秒(ないし一、二秒)映される風景を見て、「ああ、こういう風景が本当にあったんだなあ」と強く感じられる映画はないような気がする。”(「私の濃度」より)
ああ、保坂さんは小津さんの心にきちんと応えているなあ、と思った。