『レーピン展』・・・壮絶に生きようとする最後の「気配」を嗅ぎわける力
渋谷でロシアの
トレチャコフ美術館所蔵のイリヤ・レーピンの画を観てきた(Bunkamuraザ・ミュージアム『レーピン展』)。この人の絵は、中野京子の『怖い絵』シリーズで知ったのだが、そのときからなにか強く引きつけられていた。
そしてそれは何といっても、『皇女ソフィヤ』(1879年)だ。異母弟のピョートル1世にかわる摂政に就任し、ツ「専制君主」と呼ばせ、事実上の王のようにふるまうが、やがて、その異母弟にその座を奪われる。修道院に幽閉されたその窓の外には、殺された自分の家臣たちが吊り下げられ異臭を放つ。ソフィヤの憤怒にあふれて崩れんばかりの形相は、凄まじい。もう正視できぬほどのおっかなさがある。絵が描かれたあと間もなく、剃髪させられ修道女にさせられ、世の中から捨て去られる行く末が、瞼の奥にへばりつく。
『ムソルグスキーの肖像』(1881年)も圧巻だ。酒に溺れ幻覚にさまよう彼の眼は、どこを見定めるのかを知らない。しかし自尊の念ははっきりとその底流にある。この絵が描かれたあと、作曲家は1週間ほどで亡くなってしまったという。
『ゴーゴリの「自殺」』(1909年)も凄まじい。小説「死せる魂」を執筆中の姿を描いたものだが、原稿を燃やすかれの様相はもはやこの世を、そして彼自身を見限っており、狂人の体である。そしてかれはこの絵のシーンの10日後に亡くなっている。
そして『ピアニスト、ルイーザ・メルシー・ダルジャントー伯爵夫人の肖像』(1890年)。これも病気で死ぬ前の直前の肖像。数日後に死んでいる。
壮絶に生きようとする、最後の「気配」を嗅ぎ分け、そのなかにある一筋の光明を描いているような気がしてならない。
■『皇女ソフィヤ』(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a6/Sofiarepin.jpg)