物事の分別がつくくらいの歳ごろになってから、父親からときおり、「中国人は油断をしてはならぬ」というようなことや、そのあり様のことを断片的に聞かされてきた。すこし前にも彼が観光で台湾を訪れた折に土産に買ったオールド・パーの12年物が、日本に帰って開けてみるとサントリー・レッドのようなものが中身であり、それを掴まされたことをとても残念がって、やっぱり今でも彼らは…、という説明が復活した。
そうは聞かされていながらも、僕は一方では台湾人とここしばらく仕事上の付き合いがあり、そのなかでの彼らの真摯な姿勢には、父親がそこまで言うほどのことはないよなあ、僕だけは彼らにきちんと対峙しているさ、と擁護派的な観点でみていた。
しかし油断をするもしないも、昨日は自分の審美眼がいかに甘いのかを思い知ることとなる。商売の基本というものは、存外そういうものなのだということも改めて身にしみる。
台北城外の食品関連の商取引は、南はかつての新富町(現在の龍山寺のあるあたり)での生もの系(肉類)、そして北がかつての永楽町(現在の迪化街[ティーホワチエ])での乾物系だったようで、その迪化街は、現在もひきつづき魚介や木の実などの乾物、漢方薬、米粉(乾麺)などを扱う店ばかりが軒を連ねる。
東京でも大阪でも、城の近くにはこういった問屋街が開けてきたわけだから、そのこと自体は不思議ではないのだが、この台北の乾物街はどの店もほぼ同じような品ぞろえで、そのくどさというものはもう不気味ともいえるほどだった。それぞれがどのような顧客筋で以て切り分けられ経営が成り立っているのか、まったくもってわからぬ様相だ(もちろん彼らはその縄張りわけがきちんとできているから現在に至っているのだろうが)。
とそこまで分かったことはよいのだが、僕はある漢方薬を求めてそのなかを何軒も廻り、どの店もこの値段で精一杯、という表情で語りかけるそのあり様に嫌気がさしていた。そんななか、まさに嘘いつわりのない誠実の見本のような、そしてこれ以上ないほどに快活溌剌とした売り手を見出し(発掘した気分だった)、破格とおもえる条件を引き出し(交渉のたまものと信じた)、そして買い求めたその同じ薬は、駅までの帰りがけの路の小さな店で半ばからかい調子で尋ねれば、それよりも更に3割以上も安い値段を示され、誠実を信じた自分の現実に唖然とし、しかしそれではあまりにも癪なので同じものを更に3つもその店で買い求めてしまった。
都合、手を余すほどの漢方が集まってしまい、結局僕は、台湾人の素状がわかるどころか、完全に掌上で操られているという状況にあることを遅まきながら悟ることとなった。
その後、這う這うの体で台北市政ビルを訪れ、同市が運営する台北探索館というテーマ館で、僕はようやっと旧台北城の俯瞰図を見つけた。そしてその後の日本統治により整備された市街図もそこにはあり、小南門ちかくには父親の家が描かれていて、ようやっと旅の目的の片鱗を達成した気分になり安堵した。
ありし日の台北を訪ねる旅は、どうにもこんなふうに終わろうとしているが、これは自分の存在につながる源泉を知るための一つの始まりのような気がする。遠い昔の、国々と人々の歴史、そして民と民のこころの葛藤と交錯をたどる途は、実はとてつもなく遠いのかもしれない。
台北探索館はココ→
http://www.discovery.taipei.gov.tw/web/index.html
児童版のページのほうが充実している。ココ→
http://www.discovery.taipei.gov.tw/web/child/index.htm