友人が薦めていた山村修の『遅読のすすめ』(ちくま文庫)を機中読んだ。じつにしみじみと読書のたのしみを語っている。我が意を得たり、ということそのものだ。
そしてあるページまで来たとき嬉しくなった。吉田健一の長編エッセイ『時間』が引用されていた。さらに嬉しかったのは、出張鞄にまさにその本もしのばせていたからである。
山村さんは、
“冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のように流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのでなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。”
というところからひも解いてくれている。
欧州にきても吉田さんの書は心に響き、でもこの地だからこそ彼の心がそこらあたりの空気に混じって漂ってくるようなわけで、今度の出張はだからそういう感覚を保持できるかもしれないと思うとさらに嬉しくなった。
こちらはいま夕方の6時。暮れゆくフランクフルトエアポートの空はどんよりと倦怠感が漂うが、明日の朝には凛とした石畳から立ち込めるヨオロッパ独特のちょっと湿ってしかし鋭い空気が待っているに違いなく、そのことを思うだけで気持ちが昂ぶってくる。