同い年にして達観した辻仁成・・・『ECHOES ―木霊―』

辻仁成さんの小説は九割がたは読んでいるが、この『ECHOES ―木霊―』(幻冬舎)は、それらに対して、おおきな解脱を感じるものだった。小説ではなく、エッセイなのだけれども、もうすこしで命にかかわるほどの病気を経たことがそうさせているのか、なにかに挑もうとするような気持は一切ない、実に透明に透き通った、清い息吹が流れていた。

かれは、比叡山に上ったさい、身体に異変を受けたという。元三大師の姿をみたという。そしてかれの言葉は、自分を超えるものと対峙した人の言葉に変わっている。

なかばほどに、韓国人の詩人、ユン・ドンジュの詩が現れる。

『序詩』

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
私は心病んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風にふきさらされる。

(伊吹郷訳、『空と風と星と詩』より)

そして、彼の言葉が続く。

“誰に対する恥であるのか、それは他人に対してではない。私は自分に対して恥ずかしいかどうか、がいつも基準となっている。”

さいごのほうでは、このようにも書き記している。

“永遠の今というのは、瞬間のなかに永遠がある、ということではなかろうか。これはつまり、無限は有限と一緒であり、永遠は一瞬や現在と一緒であることを意味する。生と死もこれに当てはまるのじゃないか、と思うことがある。生は死の中に、死は生の中に、ということだ。冒頭で話をした、道元の池に映る月の話を思い出していただきたい。道元は、池に映った月も、空に輝く月も、どちらも本物の月だ、と言った。永遠の今がそこにある。このような、「永遠の今」という考え方によれば、私たちは永遠を生きることができないけれども、一瞬の中に永遠をみつけることが出来るかもしれない、と悟ることも可能なのである。”

かれの小説は、恋愛ものから追憶もの、宗教ものから冒険もの、歴史の一端から現代もの、幻想ものから音楽ものまで、非常に幅広いものがある。しかし、今回、かれは彼岸を垣間見たことで、このさき、達観したものだけが知っている、静かでしかし確実な意志のかずかずがを生み出していくだろうことを、僕は予感する。

ECHOES -木霊-

辻 仁成 / 幻冬舎

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Commented by maru33340 at 2011-10-18 09:02
そうか、辻さんは大病し、今そのような境地に達していたのか。引用されている詩も深く沁みるなあ。
Commented by k_hankichi at 2011-10-18 20:50
そう。彼はあちら側を見てきた。落ち着いた人になりました。
by k_hankichi | 2011-10-17 21:50 | | Trackback | Comments(2)