『不可能』(松浦寿輝)

この本のことを、さて何と表現したらよいのだろうか。『不可能』(松浦寿輝、講談社)。亡き三島由紀夫が実は生きていて、刑期を終えて出所した彼が、この世の中でなにものかを創りだしていこうとする、という筋。いわゆる退廃の世界に近い。しかしそれはかつて彼が自他を率いた美学からは遠い。まったくもって遠い。

なにがこの小説を集約しているのかと振り返ると、はじめのほうで出てくる次のような会話のやりとりなのではないか、と思った。

「時間がない……」
「英国みたいに果物がゆっくりと熟れてゆくように成熟してゆく時間の厚みってものがない。それを可能にする心の余裕がない。近代以降いつも息せき切って、つんのめるように、ただ倒れないためだけに走り続ける一方で」
「しかし、熟れるのは良いけれど、熟れた後は腐るでしょう」
「そういうことにもなるだろうね。ギボンが描いたローマ帝国…・…。だが、贅沢っているのは本来そういうものだろう。芳香の極みにひとすじの腐臭が立ち混じっているという……。つい間近に迫っているかもしれない頽廃の予感を研ぎ澄まして、そのうえでそれをひとたび忘れたふりをしてみせる。そういうゲームのことを贅沢と呼ぶんじゃないのかね。しかしわれわれはね、そういう贅沢なしでただ現在を生きるしかない。時間の厚みなしの現在、亡霊のような現在をね……」

市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で彼が事件を起こしたとき、信じていたこと考えていたことはどこに行ってしまったのか、ということを虚ろなまなざしで考えながら、ああ、もし彼が生きながらえていたならば、実はこの小説と同じことをしでかしたのかもしれない、と、すこし無念で、しかしある確信とともに僕はため息をついた。

不可能

松浦 寿輝 / 講談社

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Commented by maru33340 at 2011-09-13 07:21
僕らが英国に惹かれるのは、(現在の日本にはない)そうした爛熟した果実の放つ香りの厚み(贅沢)を感じるからなのだろうね。
Commented by k_hankichi at 2011-09-13 23:47
そう思います。ちょっとのことには動じない、篤く冷静なる理知。そしてまた、耽美。
by k_hankichi | 2011-09-12 00:30 | | Trackback | Comments(2)