魚は、疲れてるだろうな、と思った。泳げども、泳げども、とどまれない。陸上生物や、鳥のように、疲れたら、どこかに腰を下ろして、休むこともできない。常に、ひれや体のどこかをどこかしら動かしながら、危険がきたら、すばやく逃げられるようにしないといけない。ほんとうは、休みたいのだろうが。でも、留まって、腹でも出して、寝ていては、大きな魚に喰らわれてしまいかねない。
今朝、一週間ぶりに、プールで泳ぎながら、そう思った。そう思ったのは、泳ぎ始めて、しばらくたってからだった。
水に入って始めの頃は、モーツアルトのレクイエムだとか、バッハのマタイ受難曲だとか、シベリウスのバイオリン協奏曲だとか、ラロのスペイン交響曲が、頭に交錯した。会社の仕事のことも、漫画の噴出しせりふのように出てきた。責められていることに抗弁したりしていた。なにかやらないと、ということも、頭上に、電光掲示板のように流れながら、いやいや、そうじゃない、とそれを打ち消していた。そのうち、小林秀雄だとかが、五月雨的に頭をよぎった。
隣のコースの、おばさんが、こちらに侵食してこないかも、気になった。お化粧や香水は水を伝わって侵食する。水が甘くなる。それはいやだった。かと思えば、新たな参加者の泳ぎのうまさも、気になった。スピードを上げて、自分もちょっと上手な泳ぎができることを、見せようと思った。が、すぐにくたびれて、戻した。ちょっと小太りのおじさんが(自分もそうだが度外視します)、参入してきた。同じコースから出て行けー、と心で念じた。そのうち、失せた。やった~、と思った。
昼には、あの店の餃子を買って帰ろうか、それとも、一人で喰ってしまおうか、とかも思った。いやいや、サンドイッチひとつでやめとかねば、と念じた。そうこう考えていると、泳ぎながら、だんだんと、頭が痛くなってきた。泳ぎながらも、さらに痛くなってきた。やっと、1500mを過ぎた。疲れは、過ぎた。どれだけ泳げば気が済むのか。
ここらで邪念は、消えてきた。水面を通して射してくる、日の光がきらきらと宝石のようだった。映画に残したいシーンのように思えた。無我、でしょうかね。無明、を超えたのかしら?
昨晩から肝臓のあたりが重く、これは、飲みすぎだからか?、と思って、リセットの意味で泳ぎ始めた僕は、ようやっと、2kmを泳ぎきった。全身の倦怠はあるものの、健全になった。体には力がみなぎってきた。
バッハのマタイ受難曲BWV244。リッカルド・シャイー指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による演奏。古楽器を使っていて、それでいて、なんだか近代的な演奏、いわゆるナウい演奏。躍動感に満ち、声楽も元気に溢れている。この2週間ほど、これをずっと聴いているが、なかなか理解が進まない。BGMとしては心地よく響くのに、、曲としてはよく理解できない。いつのまにか、曲が終わっている。
クレンペラーさんのやつはどんなんだろうか・・・と思いながら、もうすこし、こちらを重ねようかと考えている。
泳ぎきって、身体がほぐされ、精神は研ぎ澄み、シャイーさんのマタイを聴くなう。