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読んだどの人も思うだろう内田洋子さんのイタリアものエッセイの、須賀敦子との大きな違いを、再び味わってしまった。

決して悪いわけではないのだけれと、凄腕バッターの長嶋茂雄が歩いた道のあとを似たような出で立ちで歩いているような、勿論そんなつもりは無かろうとも歩いているような誤解を与えて損をしているのがこの構図なのだ。

時代があなたをそう受け止めさせているのよ。

そう登場人物たちに語らせたい一冊だった。

改めて言う。

決して不出来ではない。ただ至らないだけの努力作だなのだ。


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# by k_hankichi | 2019-06-18 21:04 | | Trackback | Comments(2)

食い物の記憶が心を癒す

ぐずくずした週末をすごしながら、これはいかん、精神的にいかんと思った。耳に馴染む音楽もシューベルトの冬の旅やピアノソナタ21番ということになってしまい、さらには文字も頭に入ろうとはしない。

だから少し前、しゃっきりしていたときの食い物のことを思いだすことにした。

旨い中華焼きそばについて。

焼きそばは、子供のときに散々たべさせられて(含む焼きそばパン)、もはや好き好んで食べるものではなくなっていた。

しかし、その範疇に非ず、それどころかどのメニューを差し置いても注文してしまう、そういう五目焼きそばがある。

銀座の「鳳鳴春」が作るそれだ。

お店は銀座の泰明小学校の並び(本店)と、東京駅八重洲地下街、そして霞ヶ関の三店だ(と思う)。

初めて食べたのは大学生時代の本店。柔らか焦がし麺が、五目餡掛け野菜と共にあるその佇まいは、優しさと落ち着きと至福と愉悦とが共存している、謂わば一皿満漢全席の世界。

ただただ溜め息が出て、そして目をらんらんと輝かせながら食べ進むうちに、あっという間に無くなってしまい、途方に暮れなずむ心的夕方を迎える。

そしてお次。

最近の新しき発見である、チーズハドックについて。

新大久保のコリアン街で売っているファーストフードで、テレビでも多数取り上げられているから今更ながらなのだけれど、これをお土産に買い求めて家で食べたときの感銘が忘れられない。

アリランホットトッグは、中心には伸びるチーズがあり、その周囲にアメリカンドックの生地(ホットケーキ生地みたいなもの)が巻かれている。そして、最外周にはサイコロ大のポテトフライが埋め込められている。

熱々に揚げられたそれにココナッツパウダーをまぶし、ケチャップとマスタードを絡める。

どこからどう食べれば良いのか?

考えるまえにかぶり付いてしまい、二口目にはチーズが出現する。ギュスタフ・モローの『出現』とのあまりの違いに苦笑いする間もなく、口のなかの溶けたチーズに気を付けないと歯の裏を火傷してしまいそうになる。

このなんとも行儀の悪い食べ物にかぶりついている間に、ものの道理だとか筋だとかのことが、泡沫のように消えてゆく。それをさせてくれる魔法の食い物だ。

そうして僕の心は少しずつ快復していく。


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# by k_hankichi | 2019-06-17 18:39 | 食べ物 | Trackback | Comments(3)

夏に聴く冬の旅

少しへこたれることがあって、週末は音楽を聴くことも本を読むこともままならなかった。

バッハをためしに聴いてみても、それがマタイ受難曲や平均律であろうとも耳に入ってこない。だからシューマンもブラームスもスカルラッティも、ベートーヴェンもドビュッシーも受け付けることはなかった。

暑いなか、エアコンを試しにつけた部屋のなかで、もしかすると耳に入ってくるかもしれないと思って掛けてみたのは、シューベルトの「冬の旅」。それも普通はおっかなくて聴こうともしなかった、マティアス・ゲルネによるもの。

そして、音楽は心に付随する、ということはこのことなのだと分かった。

夏に聴く冬の旅。

また格別な風情なり。


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# by k_hankichi | 2019-06-16 19:44 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
高橋たか子の小説を読んだのは、これまた何十年ぶりだと思った。『誘惑者』という長篇が極めて廉価で発売されていて思わず買い求めてのことだった(小学館P+D Books, 600円)。

第4回泉鏡花賞を受賞した作品だそうだが、揺れ動く三人の若い女性の心境描写のリアルなことといったらない。自殺願望の二人をその通りにさせていく鳥居哲代の、人の心を操るえぐさと巧妙さに、思わず我の胸に手を置いてたしかめたくなる。

実際の大島・三原山火口への投身自殺事件をモチーフにして描いた、行きつ戻りつする心理と変遷の軌跡は、はらはらどきどきして、悪行の過程だとわかっていてもついつい読み進めてしまう。

悪を知って心身を浄める、とはこのことだ。


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# by k_hankichi | 2019-06-14 06:36 | | Trackback | Comments(0)

ようやっと辻邦生のエッセイ集『美神と饗宴の森で』(新潮社)を読了(五月に横浜・野毛の古書店で買い求めたもの)。これは音楽から絵画への順に、〈美〉を論じた小篇が収められている。


最初のほうで、ロッテ・レーマンの歌声との出合いについて記されている。


“理由は、中学四年のある夕方、ラジオでシューベルトの歌曲を聴き、その美しさに魅了されたからであった。そろそろ夕づいて薄暗くなってくる階下の畳の部屋で、深い憂愁の思いを歌ったロッテ・レーマンの声は、まるで恋のように私の心を捉えたのだった。


(中略)私は、たしかに後になってギリシアまでゆき、パルテノン神殿の美を啓示され、小説を書く根拠を掴むことができたが、その時、神殿から射してくる光に似た喜びの調音は、ロッテ・レーマンの声に乗って響いたシューベルトの澄んだ甘美な世界がなまなましく蘇ったものだったとも言える。


現在、世界が危機に晒され、人々が頽廃と混迷の中に喘いでいるにもかかわらず、私が、廻転するコマの中心にも似た不動の一点に身を置いたような感じで世界を見られるのも、この〈美なるもの〉が私の運命の始まりであり、終わりであると思えるからだ。


官能の陶酔に根ざしながら、官能を越えて精神の全オクターブを激しく燃え立たせ、その一瞬に「すべてよし」と叫ばせるような、そうした高揚した甘美な恍惚と充実と解脱感を、私は〈美なるもの〉の根源的特徴と考えているが、音楽の形でそれを受け取り、小説の形でそれを吐き出すことが、私の唯一の在り方なのだ。”

(「1, 文学と音楽の接点から」より)


辻邦生は1925年代生まれ。このあいだの高橋源一郎さんの仮説に基づけば、「一身にして二世を生きる」始まりの世代ともいえる。これよりも年長の場合は確信犯的に戦争に突入させていった層となるからだ。


辻さんは、戦争がもたらした陰影と相克の狭間から、美を切り口にようやっと自分の見る世界を表現しようと、「も掻いた」。


どこまでも美しく、哀れで切なくも神々しい世界への希求。


ぼくもこちら側の人間なのだと思った。


追伸: この本の装丁は、柄澤齊さんによるものだった。友人が最近出した本もこの方による装丁で偶然は必然なのかしら、と思わず嬉しくなった。



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# by k_hankichi | 2019-06-13 06:28 | | Trackback | Comments(4)

音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です


by はんきち