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友人から『藤田嗣治 日々の記録』という資料がWeb公開されていることを教わった。研究代表者∶古田亮、発行者∶東京藝術大学美術館、2022年3月31日発行。

藤田嗣治の妻・君代夫人が所蔵していた藤田の日記や写真、16mmフィルムが2010年に藤田の母校・東京芸術大学に寄贈され、その日記をもとに編纂されたものだ。PDF版232ページに渡る膨大なもものだったが、全ページ印刷してルーズリーフファイルの冊子にし、それを読了。

ノンフィクションなのに小説に匹敵する濃い読み物だった。初めて理解したことが幾つもあった。

・1913年、27歳のときに渡仏し、絵を描き続けて1917年には個展を開く。

・第一次世界大戦で中断されていたサロン・ドートンヌに1919年に6点を出品して全て入選、閉会後に会員に推挙された。

・翌1920年にもサロン・ドートンヌに出品したが終わってみれば早くも審査員を命じられた。

・1922年、日本の帝国美術院美術展覧会に、1921年の作品《わが画室》を出品したが(恩師の和田英作が日本に持ち帰ったもの)、平出品で鑑査する話が持ち上がり、これに対して父・嗣章がサロンの審査員と作品を鑑査するなら出品を撤回すると怒り、結果、無審査で推薦になった。嗣治は欧州に居て知らなかっただろうが、陸軍軍医総監だった父親も嗣治を大いに認めまた自慢に思ったことがよく分かった。

・1936年11月16日に麹町区下六番町17番地に43坪5合1勺の土地を購入し、「満帰朝後三年ノ内に東京麴町ノ地主トナル」。自ら家の設計をし1937年8月3日に新居に転居(純和風のアトリエらしい)。

・1938年9月27日、水交社海軍次官山本五十六氏海軍の招待で壮行会。(海軍省嘱託となり、藤島武二、石井柏亭、石川寅治、田辺至、中村研一と、芝公園水交社での従軍壮行会に招かれたもの)

・1939年8月23日∶「今日ドイツ、ロシアと條約すると言ふので日本は全くだしぬかれた事となり憤がいしてる事と思ふ 外交と言ふ事ハ全く何う世の中が変わつて行くものやらヒトラーのやり方も随分乱暴と思はれる。」同8月24日∶「今日程世の中の怖ろしい人顔が狂気じみた事は歴史上にもない事で機械文明の発達がこれ等の障害を起こした事となる。郊外ノ門跡に行き二枚三号スケツチシテ帰り油絵にかく」(パリに滞在していたときの日記だが、独ソ不可侵条約締結のことで藤田の憤りの大きさ、そして憂さ晴らしが絵というのもまた凄い)

・1940年4月9日∶「赤ん坊の手をねじる様な迅速な独軍の侵入とか上陸とかせん領とか余りブルタルでまた容易な事だと思ふ人道上の行為として嫌な気がする」(不可侵条約を交わしていたデンマークに対して独軍が侵攻し6時間で占領したことに対しての日記)

・1947年2月:連合軍司令部が1年をかけて審査した戦争犯罪者リストを公表。藤田の戦犯容疑が正式に晴れる。

・1947年8月24日:「何日になったら偉人が出ることやら、日本の国が解放されて、人をうらまず、ねたまず、或口せず、人を称賛し、人を育てる寛恕の人に成らねば、たゞの生存競争のつかみ合いの中で皆がお互いに殺され合ってるだけで決して飽満の大人は出ない。惜しむべき事だ。」(5月にフランスへの旅券が出ることが分かって客観性が増している)

・1949年6月1日:「(前略)山田きく夫妻、外に荻須が反対邪魔して私の渡仏をいろいろじゃまし横濱領事等とやったと聞いてとても驚いた」

・1958年11月1日:「朝だんだん日本の話細かくなつて私の想像通りだつた。大した事ハない。やはり表面丈けハ如何にも近代化したらしいが、昔の其の儘の骨強い国民性ハ少しも改良されてないらしい」

・1958年ごろ以降は、高峰秀子・松山善三らとのやりとり(来訪、手紙の数々)が垣間見られて非常に面白かった。

今回の資料に収められた日記は此れでもまだ一部らしい。東京藝術大学所蔵の藤田嗣治資料の一覧は以下。

原文の更なる開示と、専門家による読解分析・研究を期待したい。


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# by k_hankichi | 2025-07-15 06:56 | | Trackback | Comments(2)

人は記憶を捏造する

巌本真理弦楽四重奏団を招いたコンサートを学生時代の部活で企画したと、ずっと思っていた。当時の部長からそのような記憶はないと言われて、それは殆ど映画「砂の器」の加藤嘉の台詞「知らん、知らん、そ、そんな人知らねぇ!!」のように心身に堪えて、思わず当時の記録をもう一度辿ってみた。

自分のノートのなかにもそれが無くて狐に摘ままれたような気持になる。おかしいなと思って卒業後の部誌(それまでの活動を纏めて振り返ったことが書いてある)を調べてもそのような記録が出てこない。

とうとう観念した。部長の記憶が正しかった。

ところで、どうして僕はそんな記憶を植え付けてしまったのか。

巌本真理弦楽四重奏団を切り口に、学生時代の記録を遡ってみる。すると1975、1976、1977年と三年連続で、この四重奏団の演奏を聴いていることが分かった。

■1975.10.6 都民コンサート(第54回) @東京文化会館小ホール
 ・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 作品18-2
 ・ブラームス:クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115
 ・チャイコフスキー:弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 作品11

■1976.6.24 朝日音楽サロン(第150回) @朝日生命ホール
 ・モーツァルト:弦楽五重奏曲
 ・ショーソン:ヴァイオリン、ピアノ、弦楽四重奏曲のための協奏曲
 ・メンデルスゾーン:弦楽八重筝曲(ニューアーツ弦楽四重奏団との共演)

■1977.12.23 朝日音楽サロン(第168回) @朝日生命ホール
 ・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132
 ・同:同 第13番 変ロ長調 作品130
 ・同:同 大フーガ 変ロ長調 作品133

驚くべきことに、高校生時代の僕は室内楽曲をこの楽団でしか聴いていない。何ということなのか。

そしてまた彼女についてのWikipediaをみて愕然とする。1977年に癌を患い翌々年に亡くなっているのだ。僕の学生時代に巌本真理らを招聘しようとしても殆ど不可能だったことが分かる。

僕は、いつの間にか自分の記憶を捏造していた。しかし、開催したと考えてしまった経緯やずっとそう思い込んでいた理由は何なのだろうか。弦楽四重奏団であれば巖本というトラウマが頭のなかに渦巻いていたのだろうか。僕らはこんなこともやったのだと記憶を捏造したのだろうか。

大学を除籍になっても卒業したと思い込んでいた静岡県の市長も居るわけで、彼女のように多くの人たちに迷惑を掛けなかっただけ良かったと、ちょっと肩を撫でおろした。


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# by k_hankichi | 2025-07-14 07:08 | 一般 | Trackback | Comments(6)

久し振りに週刊誌を

久し振りに、これは読まねばと週刊誌を買い求めてしまった。「週刊新潮」7月17日号。

新聞に掲載されていた宣伝の内容が内容だったからだ。

■大波乱の7.20参院選 参政党「神谷宗幣代表」の危うい実像
→若い世代たちの某政党への人気が高いというが、その党首は危険な人間であることが良く分かる。

■短期集中連載【第1回】 コンサル業界の光と影 なぜ東大・京大生にコンサルは圧倒的人気なのか
→そういう世代のなかのエリートと云われる大学生たちが殺到する業界も、僕の理解通りとんでもなく酷いところだった。

■日台交流の重鎮が警告! 中国は「スパイ」と「偽情報」で台湾統一を画策している
→東アジアの危機は情報戦というのも、今の日本の選挙戦を見ているとあながち嘘とはいえない。

ときどき週刊誌も読まないといけない。


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# by k_hankichi | 2025-07-13 07:14 | | Trackback | Comments(3)

友人たちから、デジタルリマスタリングされたジョン・バルビローリ/ハレ管弦楽団によるシベリウスの交響曲全集が凄いという話を春に聞いていた。

ほほう、そうかと思ったけれど、僕はロジェストヴェンスキーの「生きる咆哮と生の讃歌」があるからそれで良いかな、と放っていた。

そんななか、映画を観に行った帰りに立ち寄ったCDショップで件の音盤集が棚に並んでいるのを認める。ああ、ここで会ったが百年目。思わず手に入れてしまった。

それを聴き始める。やはり第2番からだ。

そしてええっと驚く。本を読みながら聴きましょか、とソファに座っていたのだけれど、ずりずりと滑り落ちる。上品にソファに腰を下ろして悠長に構えるものではなく、真剣にまたじっくりと耳を傾けねばと悟る。

これまで聴いてきたこの演奏は一面に霞や靄がかかったような按配だったのに、まるで別世界だ。全てが透き通って遥か先まで手に取るように見渡せる。

眼の前に楽団が居るかのような瑞々しい音魂。木管は美しく、金管は咆哮する。バルビローリの演奏も咆哮していたのだと驚く。

いやはや、文明の力はこんなふうな恩恵も与えてくれるのか。ヤコブの梯子が降りて来たかのように思えた。

この先、一曲一曲をドキドキしながら聴いていくだろう。


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# by k_hankichi | 2025-07-12 06:28 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)

高峰秀子は両巨人が歓待

友人が楽しんでいた『おいしい人間』(高峰秀子、扶桑社文庫)を読了。1950年代から1980年代にかけての文集で、食べ物だけでなく著名人との思い出がふんだんに書かれていて面白かった。

梅原龍三郎は高峰秀子をモデルに多くの絵を描くほど親しく、その懇意ぶりが高峰のエッセイには何度も登場する。例えば次のよう。

“梅原先生との四十年間のおつきあいは、私が母と暮らした歳月よりも、夫と過ごした歳月よりも長い。先生の思い出もまたいちばん多く、そして深ぬ、私の心の中の大きな石のようにどっかりと座りこんでいて動かない。とくに、私の眼に貼りついているのは、男性にしては小ぶりだが肉厚で、爪の間に油絵の具がこびりついた梅原先生の左手である。「ボクは両刀づかいでネ、どっちの手も使えるんだ」とおっしゃりながらも、お仕事のときは必ず左手に絵筆を持った。(中略)先生の左手は仕事以外のときも、ほとんど間断なく動いていた。左の手首が、指が、右から左へ左から右へ、ゆっくりと、あるいは速く、丸く、丸く、丸く円を描くように動いていた。”(「薔薇」より)

一方で驚いたのは、高峰は藤田嗣治ともとても懇意にしていたのだ。

“昭和25年に、パリではじめて藤田画伯にお会いして、以来、パリへ行くたびに美味しいレストランや、旅行にも連れていっていただいたけれど、いちばん楽しかったのは画伯のアパルトマンでの食事で、やはり「日本食」が多かった。(中略)「君たち、センセイはもうやめてよ。なんとなくギコチなくてイヤだよ。名前なんてのは番号と同じなんだから、フジタであろうヘチャプリであろうが一向にかまわないんだよ。これからはボクをヘチャプリって呼びなさいよ。僕も君たちを『お善』『お秀』って呼ぶからサ」と言われてから私たちは、藤田画伯を「へチャプリ」と呼ぶようになった。”(「へチャプリ大王」より)

いやはや、この二人の相克は誰でも知っている。

梅原龍三郎(1888年生)は1908年に渡仏しルノワールに師事し1913年に帰国、藤田嗣治(1886年生)は1913年に渡仏し多くの画家・文化人たちに囲まれながら独自の画法を編み出し時代の寵児になり1933年に帰国。

若くして留学できた梅原からすると、遅く来たのにフランス美術界で高い名声を博した藤田のことが目の上のタンコブだったに違いない。

そしてまた戦時中、藤田は戦争画の第一人者として陸軍美術協会理事長を務め、戦後はその責任を問われて日本画壇から排除される形でフランスに帰化した。排除の首謀者は梅原だったことを藤田は確信している。

藤田が羽田空港での離日会見で「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩はしないでください」と語った話は有名だ。

こんな相反する二人から、高峰秀子はとても歓待され、そしてまた分け隔てなく接することが出来ていた。

こんなふうに懐の広いひとになりたいなあと、無理を承知で思って吐息をついた。


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# by k_hankichi | 2025-07-11 07:14 | | Trackback | Comments(2)