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「めまい」とパーコレーター

五月連休の(この期間に限ったことではないけれど)テレビのニュース報道を観ていたら頭が悪くなっていくような気がした。というか「めまい」が起きて確実に頭が悪くなった。

緊急事態宣言中に渋谷の街に出ている人へのインタビュー。

「思ったより人出があってびっくりです」
「ちょっと用があって駅を下りてみたら驚きました、たくさん人がいて」

何のためにどのようなことをインタビューしたいのか、思想や意図がまったく無い。次のように諭すシーンを入れ込んで行動を抑えるよう促すのが報道というものではないのか。

「不要不急の外出を控えるように言っているのにどうして混雑しているところに出てくるのですか?家に居るべきなのですよ」
「あなたのような人たちを介してウィルスは伝搬していくのですよ、わかりませんか」

飲食店へのインタビューでもそうだ。

「五月連休の売り上げを当てにしていたのに、これで一切がだめになりますね」
「一昨年の1/10以下の売り上げにしかなりません、やってられません」

その通りだろう。でもこれを伝えるだけだったら単なる愚痴の受け売りで何の意味はない。どうすべきなのかを仮説でもよいから語ってくれ。

「こういう事態から早く抜け出る為にもワクチン入手量を増やす手立てを打ってほしいというのが国民の願いです」
「飲食店の努力に報いるためにも、人の往来を更に抑制する施策を加え感染者数を抑えることが行政に期待されます」

結局は期間延長する方向(だけれどいつのようにグズグズしてまだ決めない)。ニュース報道と政策に再び‘めまい’が起きたところで、映画『めまい』(1958年、原題: Vertigo)を観た。小林信彦の『とりあえず、本音を申せば』の2020.7.2号分に書かれていて気になっていたのだ。

探したら、何とリビングのハードディスクレコーダに録りだめてあった。小林さんが観たNHK BSプレミアムの放送分(2020年6月17日)。アルフレッド・ヒッチコック監督、ジェームズ・スチュアート、キム・ノヴァク主演。

映像は4Kデジタルリマスター版で本当に綺麗で、まるで現代の映画のよう。そしてまたキム・ノヴァクの美しいこと。ジェームズ・スチュアートの優男ぶりもいい(もちろんカッコいい)。

1950年代のサンフランシスコ市街にも、思わず身を乗り出してみたくなる。知っている場所が幾つも出てくるけれど、昔の風情の美しさには息を呑む。二人が訪れるモントレーからほど近い、Mission San Juan Bautistaという教会がノスタルジー豊かで素晴らしかった。いつか訪れてみたい。

この作品を小林さんは次のように言い表している。

“スコッティという探偵役を演じるのはジェームズ・スチュアートであり、彼が謎ときをすることになっている。〈ことになっている〉と書いたのは、サンフランシスコで刑事をやめた彼がボンヤリ生活していることが、物語と重要な関係にあると見ていい。つまり謎に包まれた女(キム・ノヴァク)と出会った彼が女に惚れてしまったがゆえに起こった事件といえる。(中略)要するに、スコッティさんがボンヤリしていたのが、いけないといえばいけないのだ。しかし、まあ、この映画のキム・ノヴァクさん(のちに日本にもきた)の美しさには困ってしまう。彼女は二度出てくるが、二度目の方が美しいから困るのだ。”

なんとすっきりとした言い回しなのか。そしてまた、謎解きのところを明かさないまま、この作品がどう素晴らしいのかの核を突いている。

キム・ノヴァクは、二度目に出てきた時の方が美しい。それがどうしてなのかは、この映画を終わりまで観ることで僕にもよく分かった。

ところで、作品の半ばで、キム・ノヴァクにコーヒーを勧めるシーンがある。そのコーヒーポットが何とレオン・フライシャーが言っていた「パーコレーター」だった。

理由なく嬉しかった。


■映画トレイラー(英語版がいい)。


■淀川長治による解説。これがまたいい。


■パーコレーターとスチュアート
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# by k_hankichi | 2021-05-06 00:39 | 映画 | Trackback | Comments(2)

フライシャーとセルによる清冽と溌剌…『皇帝』

『皇帝』を題材に自由自在に心身をたゆたうように愉しんでいる、こんな胸のすくような演奏は聴いたことが無かった。レオン・フライシャーが弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73。

さまざまなピアニストによる演奏を聴いてきたけれど、もともと僕はこの第5番は苦手。たいがいの演奏は重々し過ぎたり、偉ぶり過ぎていたりで、どう聴けばよいのか分からない年月が続いた。漸くそれを打ち破ってくれたのは、ピエール=ロラン・エマールが弾く、ニコラウス・アーノンクール指揮、ヨーロッパ室内管弦楽団によるものなのだけれど、そのあと何度も聴く気持ちにはならなかった。

フライシャーの演奏の美しさはすべてを卓越していた。

第一楽章のコロコロと零れ落ちるようなピアノの音魂とキレの良いオーケストラ。

そして第二楽章の抒情。打って変わっての遅いテンポ。しつこくなく、爽やか。聴いているだけで吐く息が美しくなる。身体を流れるものが全て純化されていく。そういう感じだ。ベートーヴェンはこういうことを伝えたかったのだと思う。

第三楽章は再び清冽だ。思わせぶりがなくて、凭れ掛かってこない。聴いていると自分の掌が自然に夢遊病者のように宙を舞う。弾ける、というのはこういうことだ。

さすがエリザベート王妃国際音楽コンクールの初回覇者。マルタ・アルゲリッチもこんな風に弾きたかったんじゃないかな。


■曲目
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲
・第3番ハ短調作品37
・第5番変ホ長調作品73
■演奏
レオン・フライシャー(Pf)、ジョージセル指揮、クリーヴランド管弦楽団
■収録
1961年4月14日(第3番)、1961年3月3日&4日(第5番)、セヴェランス・ホール、クリーヴランド
■音盤
The Intense Media LC12281

■その演奏(YouTubeから)


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# by k_hankichi | 2021-05-05 08:05 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(6)

本音が大切と痛感する

小林信彦さんの本を読んで外れた試しがないが、近刊『とりあえず、本音を申せば』(文藝春秋)も素晴らしかった。週刊文春連載のエッセイの2020年分をまとめたもの(1月2日/9日合併号から12月24日号まで)。

いつもの映画、芸能音楽、文学などに加えて、コロナウイルスや大統領選、首相交代などがあった一年だったわけだけれど、小林さんの軌跡をたどることは、世の中の一年や僕ら読み手の一年が意図せずにも重ねられ対比されて、特別に面白かった。

冒頭は「マキノ雅弘と〈ジュディ〉」(20.1.2/9)。

“久しぶりに、これは凄い映画だ、と思うものを観た。ジュディ・ガーランドの生涯を、ラストに近い数か月を描いただけで、誤解されがちな人物に新しい光をあてることに成功している。(中略)ジュディ・ガーランドが消えていったのも、この映画を観て裏がわかった。イギリス映画だからこそ、これが作れたのだ。”

ゴシック字体を入れて絶賛している。『ジュディ 虹の彼方に』のことだ。しまった、と改めて思う。僕の友人も称賛していた作品なのだけれど、コロナのせいで見逃している。いずれ必ず観たい。

「書店の減少・宍戸錠の死」(20.2.6)では次のよう。小林さんの本音は、愚痴ではなく的をついた正論だ。

“〈消費税〉さわぎから、本の売れ行きが止まり、出版社がどこも困っている。アベという人はそういう時の庶民の心理などは読めない人間だと思う。自分の狭い権力の範囲だけ考えている人間で、国の文化を自分が汚していると思っていないのだろう。戦後最悪の総理というべきで、自分の在り方など考えたことがないタイプの人間なのだ。”

「薬研堀・戦争・父親のこと」(20.7.20)を読んだら目から鱗が落ちた。僕自身が長らく騙されていたことを知ったからだ。「やげんぽり」という七味唐辛子の由来は京都の地名からと思っていたら東京の日本橋だった。

小林さんの生まれた街がまさに薬研堀があったところだという。米沢町、両国という名称を経て今は東日本橋という地名になっている。調べたら次のようにちゃんと書いてあった。→https://ja.wikipedia.org/wiki/やげん堀

そしてこんなことで締めくくられる。

“私が高校生の時、その元芸者さんと柳橋の上ですれちがった。私は柳橋の向うの銭湯に行く途中だった。いつもと同じように挨拶をすると、向こうは立ち止って、「おたくのお父さん、むかし、好きだったのに・・・」と言った。そんなこと、言われても困る。”

学生時代にその銭湯に何回か行ったことがある。ゆず湯の日に当たったこともあった。三味線の音も聞こえる界隈の雰囲気も良かった。

「コロナ恐怖・旧日本橋区の人々」(20.9.24)。そうだよなあと思うと共に、政治家の現状に改めて暗澹となる。

“テレビでの演説はゆうべ見たが、菅氏の暗さ、話の長さに閉口した。石破氏は今はアウトサイダー風だが、なんというか、頑固なだけで、ふつうの人である。この、ふつうの人が、今、いない。(中略)〈アベ政治〉は経済も失敗したが、憲法改正が不可能になったのが敗因ではないのか。子供のころからツジツマを合わせるのだけうまかった人というのは、社会人として失格だと思う。”

このほかにも、思わず見たくなってしまう今昔の映画作品に触れたものが沢山あって嬉しい悲鳴。でもそのことを書くのは観てからにしておこう。

それにしても小林さん。四年前に脳梗塞で倒れ、左半身不随で車椅子生活の人とは思えない。相変わらずの冴えぶりと精力的な活動に、頭が下がる。

僕らも頑張らなくては。


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# by k_hankichi | 2021-05-04 07:16 | | Trackback | Comments(4)

マックスウェルハウス・コーヒー

またまたレオン・フライシャーで恐縮だけれど、そこからマックスウェルハウス・コーヒーまで繋げてゆく。川本さんの本からの触発で尻取りゲーム風に。

“Two Hands”というアルバムでは、ピアニストへのインタビューがライナーノーツになっていた。そのなかに次のような事柄が頭から離れなかった。シューベルトのピアノソナタ第21番変ロ長調D960についてのこと。

おおむね訳すと次のようになる。

“ある意味、私にとってこのシューベルトは成人の音楽だった。というのもシュナーベルが私を追っ払ったあとに最初に勉強した曲だったから。シュナーベルの前で弾いたことはなかったし、彼のところを離れたときにはテープレコーダーやそういう類のもので録音したものもなかったので、いつもヨタヨタになりながら部屋をあとにしたレッスンで授かった沢山の知見を失くしたと思った。そのあとの何年かは、大海の真っ只中で救命具もないままに漂っていた。

その難局から抜け出ようと選んだのはヨーロッパ行き。1950年にユージン・イストミンと私はおんぼろオランダ定期船・Veendam(フェーンダム)号の一等席を予約しパリに向かった。イストミンはカザルスのところでの演奏に向かっていて、わたしはただそこに金魚のフンのように付いていた。

着いたあとの、或る場面を思い出す。この変ロ長調を弾き始めていて或る種の神聖さ気高さを感じていた。曲を修得しようとしたときに立ちはだかったのは、どう弾くべきかということ。まさにそんなとき、大きな出来事が起きた。あのマックスウェルハウス・コーヒーの(TV)コマーシャルのパーコレータのように、小さな泡がフツフツと頭のなかに沸きだしたのだ。そしてシュナーベルの言葉が蘇ってきた。すこしづつ浮かんできた。彼が言ったことを私は何ら忘れていなかった。

それは「隠れていたものを浮き立たせなさい、あぶりだしなさい」ということだった。そしてそれを思い出したとき、それこそがシュナーベル自身の答えなのだと気づいた。そしてまた、語られなかったこともあると分かった。それは、泡が啓発的にフツフツと次から次に沸くように、弾き方には色々あるということ。

そうして違う弾き方にしてみようと試してみたら上手くいった。言い換えてみれば、私はシューベルトのピアノソナタ変ロ長調とともに、一連の研鑽のプロセスが回り始めたのだ。”

話はこのあと、第二次世界大戦の「急降下爆撃機」が舞台となった映画に移って、その機がどう回生するかに移っていくのだけれど、そこで語られる重要なこと。それは難題に打ち勝つためには克服しよう突破しようとするのではなく、肩の力を抜くのだということ。それがその後の自分の人生を導いたとも語っている。

話がとても長くなったが、僕はこのマックスウェルハウス・コーヒーのコマーシャルのパーコレータ、というのがピンと来なくて謎に包まれた気分になっていた。子供のころそんなTVコマーシャルを見た覚えがなかったから。

YouTubeでそれを探すことが出来て、眺めたらどういうことを言っているのかようやっと分かった。沸騰した蒸気が跳ね返る部分が透明なガラスでできている。泡がフツフツと沸いて見える。「閃き!」みたいに躍動感があってお洒落だ。

もうひと捻りしないと坪ちゃん的な話のオチにならないが、このガラストップの設計のパーコレータが欲しくなって探し始めたところで終わりにする。


■Maxwell House Coffee - Just Listen - Vintage Commercial - 1950s - 1960s


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# by k_hankichi | 2021-05-03 00:16 | 食べ物 | Trackback | Comments(4)

フライシャーの旅路

レオン・フライシャーの"the journey"を聴いている。先に出された"Two Hands"は、痛めていた右手が復活したあとの初めての音盤だったけれど、こちらは、そこに至るまでのさまざまな事柄を思い出し、その軌跡をたどったような音楽だった。

最初のバッハのカプリッチョに、すべての邪念を開放した自然な体に心が落ち着く。兄を見送る悲しみというようなことがらではなく、安寧を祈る優しさ、温かい眼差しがそこにある。

梅津時比古さんは、この演奏について『フェルメールの楽器』で次のように書いていた。

“七八歳のフライシャーの演奏は、出発は常にある、と語っているように思えた。「旅立ち」は、新たな地に踏み出した新たな時を迎えることだけではなく、自らの欲望から離脱することでもあり、懊悩からの解脱でもあるのだろう。すでに右手や左手の問題ではない。誰にだって不可能なこと、不可避なことはある。フライシャーが思いを馳せているのは、それを解決するのではなく、そこからいかに出発するかということなのだろう。あまりにも純粋で無垢なピアノの響きは、旅立ち続けた果てに得たものとしか考えられない。そして、出発は別れでもある。”

その後の来日公演を聴いての、梅津さんのつぎの言葉も胸に響いた。

“自由に軽やかに舞えば舞うほど、聴いていて、まるで夢のなかで泣いているような哀しさに襲われたのはなぜだろう。右手が動かなかった四〇年のあいだ、彼は何度も何度も自由に舞う夢を見ただろう。その渇望の悲しさが背後から聞こえてくるのだろうか。”

YouTubeにあるフライシャーのインタビューも心を打つ。老齢の静かな映画俳優のような佇まいが、たまらなく格好いい。この音楽家のことがとても気になっている。


■曲目
・J.S.バッハ:カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」変ロ長調 BWV.992
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 K.282
・J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903
・ショパン:子守歌 変ニ長調 Op.57
・ストラヴィンスキー:イ調のセレナード
・ベートーヴェン:バガテル第25番 イ短調 WoO.59「エリーゼのために」
 レオン・フライシャー(ピアノ)
■収録
2005.12.27~30、American Academy of Arts and Letters、New York
■音盤
eOne Music ATM-CD-1796


■Piano Virtuoso Fleisher on Overcoming Disability That Nearly Silenced Career


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# by k_hankichi | 2021-05-02 08:52 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)

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