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金平糖のこと
夕飯を小料理屋で食べていたら、和服を着て飲んでいた隣のおじさんが様々なことを板前さんと話していて、それに聞き耳を立てていると、旅先での読書片手の一人酒も時間をもて余すことがない。

金平糖の話になった。

「チャイコフスキーのバレエ曲のさあ・・・」

という調子かと思ったら、

「金平糖っていうのはさ、由来は知ってるかい、どうやってつくるのか板さん知っとるかい」

板さんは流石に料理人で答える。

「ポルトガルの南蛮菓子ですよね、時間をかけて作られていきます」

「その一番の芯は何か知ってるかい」

ここにきて答えに詰まる。さて何が芯なのかなあ?

ぼくもその先が知りたくなった。

※追伸: 「じつは芥子の実を核にしているのさ」、ということを呟いていたように思う。「芥子」という言葉に、これは聞いて良かったのかな、と思った。

■お店の名物「カニグラタン」
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# by k_hankichi | 2017-02-17 08:07 | | Trackback | Comments(2)
遠巻きにしてきたフィッシャー=ディースカウ
今更ながらにディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのことを、ずっと遠巻きにしてきたことに気付いた。堀江敏幸の『音の糸』(小学館)を読んでのことである。

彼のことを、堀江さんは次のように表現する。

“やや大きめの地方大学で体育学か運動生理学を教えている、アーチェリーの元欧州選手権銀メダリストに喩えたりするだろう。知性と身体能力が完璧に結びついた、すぐれてギリシア的な均衡がそこには認められるからだ。(中略)無重力空間で声を届かせてしまうくらい肺活量のありそうな胸をしたこの人と、”(「小川への微妙な感謝」より)

“外科医のメスのように皮膚を貫くさまがドイツ語を解さない者にもわかるような発声と、手術痕を残さない自然な治癒力のある言葉の響き。押し出しの強さと繊細さを共存させるのは至難のわざだがDFDとも略されるこの不世出のバリトン歌手の声は、短い曲であっても、長篇の一部として先に伸びていく感覚を残しながら確実に終わるという、ありえない余韻を残す。ステージの後ろで背中を見ながら聴いていても、届く声量が変わらないのではないかと想像させるような、全方位的に向いた声の柱がそこにはあった。”(「宇宙歴1951」より)

僕にとって、フィッシャー=ディースカウの印象はまさにそういうもので、それは「完璧」という言葉が表すものに近く、そういうものごとを前にすると圧倒されて逃げていきたくなるものだから、これまで彼の音楽を殆ど聴いてこなかったのかもしれない。

そんな彼は、シューベルトの『美しき水車小屋の娘』を何度も録音している。堀江さんは、最初の録音(1951年、25歳のときのジェラルド・ムーア伴奏)の衝撃を記載していて、それは歳を経てから何度か収録されたものよりも遥かに渋くて、しばし言葉を失うものだったという。

僕は聴くべき音楽をいくつも遠ざけてきた。この先、どれだけ聴いていくことができるのだろうか。
 

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# by k_hankichi | 2017-02-16 09:05 | | Trackback | Comments(4)
35年ぶりの宴
昨晩は大学時代に入っていた体育会の部活仲間4名が集まった。35年ぶりである。当時は、授業が終われば練習場にはせ参じ、テーブルを前に打ち合う。部活が終われば、また別のテーブルを前に打ち合う。そういう生活だった。

卓球と麻雀。この組み合わせほど絶妙なものはない。そう信じていた。

無事に卒業ができるかどうか危ぶまれるような仲間たちばかりだったけれども、35年を経て会ってみれば、大学教授、メーカーの技師長、メーカーの営業部長、そして私といういでたち。たがいに昔の無法図さをわかっているので、よくぞここまでちゃんと社会で生きているなあ、と互いの顔を見合わせながらそのギャップに驚き、そしてまたその可笑しさに笑い転げる。

あっという間に予定していた3時間が過ぎ去っていく。そしてこんどは、もっと仲間を呼んで、また飲もうね、ということになる。

これまで35年もあってこなかったわけだから、次は35年後だとすると、もう100歳に近くなっているはずで、それではいけない、ということを言い合っていると、月日というのは、なんとまあ早く過ぎ去ってしまうのかと、おのおのが、おのおのの人生を顧みる。

月日は百代の過客にして、行かう年も又旅人也。

この言葉をしみじみと噛みしめた。

■そして読み始めた本
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# by k_hankichi | 2017-02-15 22:00 | 街角・風物 | Trackback | Comments(0)
僥倖のチョコレート
こういうチョコレートであれば、何千粒でも食べたい、と思った。家人から貰った「ロイズ 生チョコレート バランタイン17年」である。

家のなかでは、僕自身がチョコレート好きだったとは知られていないのだけれど、生まれ育った実家では、幼児の時から僕がそこに没頭していたことは常識となっている。父親はそういう息子可愛さのあまり毎日チョコレートを買って帰ってきたとあとから聞いたが、そのおかげで僕の乳歯はすべて虫歯となり欠け落ち、小学校に入るころから入れ歯のお世話になっていた。

それ以来、反面教師的にチョコレートのことは嫌いになり、それを周囲にも公言してきた。セレブレーションともいえるような2月14日は、普通の人たちが抱く淡い思いとは裏腹に、幼少期の生傷が疼く毎年だった。

そのようななかのバランタイン入りの逸品。それも17年ものが入っているので、僕にとっては世界の天地がひっくり返るほどの思い。

アダムとイブの禁断の果実というものはこういうものだったのかしらん、という思いが頭を過り、そして今後もしチョコレートを食べなければならないのであれば、もはやこれ一本に絞りたいと思うに至った。

僥倖という言葉をあまり使ってはいけないと思えども、こういうときに使わずしてどうするのかと思う気持ちは殊更に温かかった。

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# by k_hankichi | 2017-02-14 07:06 | 食べ物 | Trackback | Comments(3)
夢の話の楽しさ
小林信彦さんのエッセイや私小説は、かなり好きで、網羅的ではないものの時折読んでいる。しかし本として「本音を申せば」というシリーズがあるということを本当に迂闊乍ら知らなかった。週刊文春に連載エッセイの文庫化なのだ。それを初めて読んだ。『アイドル女優に乾杯! 本音を申せば⑩』(文春文庫)。

映画や俳優、女優の話、作品が隆盛した時代のこと、テレビやラジオの時代、社会時評、街角風物、などなど、その幅広さと、着眼点の鋭さ洒脱さに感服する。

それに加えて目が覚めたのは、著者が目覚める前の夢の話。

“夢の中で、ぼくは目覚めている。そして、どうするかというと、手洗いに向かうのだ。このへんで、夢と現実がゴチャマゼになっているのが、ようやくわかってくる。ベッドを出て、廊下を歩き、右に曲がると(中略)そっちへ行ったのではまずい、という思いから、脳が動き出す。それは空襲で焼けてしまった家で、あれから六十何年たった今の家はちがう。廊下までは正しいが、右折しては駄目だ。(中略)ドアをあけ、左手の鏡を見る。ひげをそるつもりなのだが、鏡を見て、びっくりする。そこに映っているのは、駝鳥だ。東日本の草原からきた駝鳥がぼくを見ている。”(「あつさ、事件、なみだ」より)

こういう、夢の事をしっかりと覚えていて記載できる記憶力の凄さにも驚くけれど、それにも増して、その奇天烈な中身にも心躍る。

この夢の世界は、実は僕が見る夢の世界の中身にも仕様が類似していて、ますます彼の世界に惹き入れられていくことへ、何の拒みもないことに気付く。

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アイドル女優に乾杯! 本音を申せば10 (文春文庫)

小林 信彦/文藝春秋

★★★★★



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# by k_hankichi | 2017-02-13 06:35 | | Trackback | Comments(2)
標的の地への追悼
先週の今頃は、長崎の平和公園を訪れていた。平穏なる市民たちが住む穏やかな町であるにもかかわらず標的にされ、Ground Zeroとなったということに、ただただ黙することとなった。

そして遠藤周作の小説を読んで初めて、その浦上地区が、江戸時代にはキリシタンの村として弾圧され尽くした場所であることを恥ずかしながらようやっと知った。

表向きは信仰を隠しながら生きてきた人たちの村。長崎の町中の人々はおそらく感づいていただろう、そして疎んじられ続けただろう。明治時代になり、しばらくして初めて天主堂を建設し、堂々とお祈りを捧げることができるようになった。

そこを標的に選んだ国はキリスト教を深く信仰する人々の集まりだっただろうに、それでも敢えてその一帯を狙っていった。軍事施設だけでなく市街地も含んでいるにも関わらず。つかの間の安住の地が阿鼻叫喚の地に転じた。

施政者というものは、傲慢に無慈悲にどのような事をも実行してしまう、できてしまう。その結果に何が残されるのかということを、権力を持つ者は何重にも何重にも深く考察して、物事を運んで行かねばならない。

■被爆後の浦上天主堂(米軍記録映像) →https://youtu.be/z8nrQkerc9w


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# by k_hankichi | 2017-02-12 08:51 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
『切支丹の里』のたえなる響き
遠藤周作が『沈黙』を書くことになったきっかけは何だったのか。そのことを書いた日記やエッセイ、そうして習作的なる短編が収められている一冊だった。そして、自分自身が先週訪れた土地、そして驚くべきことに、更には今となっては自分にまで細い細い何かが繋がっているということが分かった一冊だった。『切支丹の里』(遠藤周作、中公文庫)。

“もう私にとっては自分の故郷のようになった長崎である。『沈黙』を準備していた時、私はここを三か月に一度は必ず訪れた。長崎から諫早をすぎて小浜に至り、この小浜から島原を結ぶ海岸線をもう、どのくらい歩いたか分からない。(中略)加津佐のコレジヨは日本で最初の印刷機が据えられた場所である。この金属印刷機は巡察師ヴァリャーノが、ヨーロッパに派遣した有名な天正の少年使節が持って帰ったもので、聖人伝抜萃ともいうべき『サントスの御作業のうち抜書』という本はこの機械で印刷された日本最初の翻訳文学であり、現在、英国ボートレリアン文庫に所蔵されている。ヴァリャーノはこの印刷機で更にセミナリヨやコレジヨの教科書、宣教師のための文法書や辞書や信者の修業を印刷させて布教の促進に役立てたのであった。”(「有馬、日之枝城」より)

僕も遠藤氏と同じ道を辿って海と山に囲まれたあの鄙びた町を訪れ、今の家人の家族に遇い、そしてそれがいまの自分自身に繋がっている。

他人事ではなく、そこにはしっかりと撚られた赤い糸があるように思えた。

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切支丹の里 (中公文庫)

遠藤 周作/中央公論新社

★★★★★




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# by k_hankichi | 2017-02-11 20:46 | | Trackback | Comments(2)
遠藤へのいざない
話題の映画を観る前に、と何の気なしに読んだ。『沈黙』(遠藤周作、新潮文庫)。

読み終えて深い吐息をつき、これまでの浅い認識、すなわち“ネスカフェ・ゴールドブレンドの人”、或いは“ダバダ〜の狐狸庵先生”というものが、ガラガラと崩れ落ち、その代わりにイエス・キリストが静かな眼差しで立ち上がるのを見た。

いったい僕は遠藤周作の小説を学生時代どのように読んでいたのだろう。

解説を佐伯彰一が書いている。「アリストテレス流の悲劇の伝統的な定義が、そっくりそのまま当てはまりそうなほどに、ドラマチックな骨骼が、どの作品にも透けて見える。(中略)思いもうけぬ不意打ちは、まったく起らないというに近いのだから、ドラマとしては、わき道なしの直線的展開が一きわ目立つ。」

まさにそういう感銘だった。

昨年読んだ津島佑子の『ジャッカ・ドフニ』の幾つかのシーンが重なったりもした。そしてまた、『マタイ受難曲』の数々の場面が頭をよぎった。

映画を観る前にまだやることかあるのではないか。キリスト教のこと、隠れキリシタンのこと。宗教信仰のこと。しっかり学ばねば。

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沈黙 (新潮文庫)

遠藤 周作/新潮社

★★★★




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# by k_hankichi | 2017-02-10 07:46 | | Trackback | Comments(3)
通勤読書を心待ちにする
中学高校は片道1時間、大学は片道約2時間を掛けて学校に通っていた。この通学の時間ほど、本を読めた時間はなかった。単位時間あたり、人生で一番読んだ時期だった。

中学時代は、司馬遼太郎から始まりコナン・ドイル、井上靖(ひさしではない)、星新一、小松左京、北杜夫、芥川龍之介など、シリーズものから長篇、そして中短篇など小説を読み耽った。今から思えば、もっとしっかりした作品を読みこなしていればとは思うが、もはやどうにもならない。

高校ともなると、島崎藤村、ドストエフスキー、へルマン・ヘッセ、夏目漱石、太宰治という記憶が強い。どうしてあんなに藤村が好きだったのか。昔の読書ノートは押し入れの奥の奥だ。

大学は、サルトルの人文書院版フランス装、トーマス・マン、相変わらずの太宰治、西脇順三郎、辻邦生、音楽之友社の作曲家と音楽の解説書シリーズ(平島正郎による「ドビュッシー」は穴が開くほど)だった。

社会人になってからの通勤は、短いバスと歩きの組み合わせの連続だったから、通勤のときに長い時間を確保できたことはなかった。

そんななか、来月からは通勤時間が2時間程度掛かるような仕掛けが訪れる。

「遠距離通勤たいへんですね」

という声が聞こえそうだけれども、心のなかでは其れを即座に否定している。

だって、再びあの至福の時間を持てるようになるのだから。

通勤読書。さあて何から読み始めようかなあ。愉しみを心待ちにする此の頃である。

■アーサー・コナン・ドイル(こんな顔の人だと初めて知った)
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# by k_hankichi | 2017-02-09 07:46 | | Trackback | Comments(2)
恥ずかしさの愉悦への変換。愉悦の哲学への変換。
パソコンや携帯電話で急いで文や文字を送ったとき、しばしば意図せぬ文字が送られていて恥ずかしくなったり当惑したりする。

「お願いしまふ」
←「お願いします」

くらいならば可愛い。このあいだは、

「これは実物でしょうか、それとも複線入試でしょうか」
←「これは実物でしょうか、それとも複製でしょうか」

となっていて、どうしてこんな単語になっているのか理解不能だった。誤変換が「替え玉入試」だったりしたら始末に終えぬ。仕事メールではなかったので胸を撫で下ろす。

しかしまてよ、と思った。

こういう不思議な言葉が生まれるのは、深層心理が関係しているのかもしれない。いやきっとそうだ。

「ベルグソンを読みたまえ」

小林秀雄も、先の本で言っていたっけ。

愉悦は哲学に繋がってゆく。

■アンリ=ルイ・ベルグソン
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# by k_hankichi | 2017-02-08 07:49 | 一般 | Trackback | Comments(3)