音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち
『精読 小津安二郎 ‐死の影の下に‐』(中澤千磨夫、言視舎)を読了。映画の中身を小説を読むように丹念に解き明かす、ということが出来るようになったゆえの精読とある。ビデオの登場によるものが大きいとしていて、たしかに本を読むかのように再生や巻き戻し、ポーズやコマ送りも出来るこの文明の利器がもたらした遣り様だ。

名作の数々が仔細な読み解きや、取材を通して行われていく様は、驚きを通り越して圧巻である。

精読の様は、映像の解析だけによるものではない。中澤氏は中国大陸の数々の場所を小津の日記を便りに訪れ、背景や足跡、遭遇しただろう出来事を調べ上げている。深さが違う。

『父ありき』、『宗方姉妹』、『麦秋』、『東京物語』に重点が置かれるが、ほぼ全ての作品について言及や解析がある。

僕は『宗方姉妹』をろくに観ていなかった(おそらく学生時代に京橋のフィルムセンターに足を運んだときくらいか)。『麦秋』は眺めていただけだった。

まだまた浅読みだということに気づかせてくれる凄い評論だった。

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# by k_hankichi | 2017-07-04 07:31 | | Trackback | Comments(2)

『死の棘』を観る

こんなに原作に忠実に出来るのか、と深く暗い吐息をつきながら観終えた。『死の棘』(松竹、小栗康平・監督、1990年)。

何を記載しても無駄に思えるほど、どよんとした大きな水溜まりのなかに放り込まれた感じがするが、それはそのままで良いのだと思った。

つまり文句なくの秀作で、何度も見返したい作品となった。

このDVDは小栗康平コレクション(駒草出版)のなかに収められていて、別冊で小栗監督と文芸・映画評論家である前田英樹の対談が入っている。そこには次のような記載があって、なるほどこの配役はこういうところからきたのかと分かった。

“奥山さんは「ミホを松坂で・・・君は本当にそう思っているのか?」と真顔で尋ねてきました。その時点ではまだ脚本は出来上がっていなかった。そこでこう説明したのです。「考え方として、新劇の無名の俳優さんを使うか、名の知れたスターを使うか、二つの撮り方があると思います。名の知れた俳優さんを使う場合だったら、作中のミホとトシオの関係性からしても、ミホは大スターであるべきです」。そのようにお話ししたら、「じゃあ、俺のところでやれよ」と。ここで決まってしまった。”

“当初、主役のトシオには、松竹の往年の大スターだった人の息子を考えていました。某二枚目俳優です。松竹はそのキャスティングをとても喜んでいましたが、当の本人から「自分にはできない」という返答が返って来てしまったのです。確かにその俳優さんは役の設定よりずいぶん若かったし、松坂さんとの年齢でのバランスの問題もあるにはありました。ただ僕は、そういうことを全部呑みこんだうえで、やれる、ジャンプしなさい。そう伝えていたのです。最後は会って二人で話をしたのですが、彼にはそれだけの勇気がなかった。あの時にやっていれば、お父さんに並ぶような大きな俳優さんになっただろうに・・・残念なことでした。”

この素晴らしい作品の主演を断った人が居たとは。この人かな?と思い当たるところはあるけれども、洞察力を発揮することや大事なとき開き直ることの大切さについても、なんだか教わった。

・1990年 カンヌ国際映画祭 審査員グランプリ
・日本アカデミー賞主演男優賞・主演女優賞

<キャスト>
島尾ミホ:松坂慶子
島尾敏雄:岸部一徳
邦子:木内みどり
<スタッフ>
音楽:細川俊夫

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# by k_hankichi | 2017-07-03 06:12 | 映画 | Trackback | Comments(4)
今朝の夢は、映画撮影の現場に遭遇する話。

故あって、地方の宿に宿泊することになった。そこでは映画のスタッフが定宿にしていて、昼夜問わず撮影が進められている。老若男女の俳優も、それぞれの部屋に分かれて宿泊している。

僕の視点は、俳優の日々の動きを追跡するものに変わっている。映画に出演する人たちを、外から眺めるというような感じだ。

驚き、かつ嬉しくなったのは、松竹、東映、角川映画などで活躍した映画俳優たちが居ることだ。八千草薫、松田優作、倍賞千恵子、飛び入りで河合奈保子・・・。手に届く距離に彼らが存在する。僕の心臓の鼓動が、映画スタッフの掲げる音声に混じらないか不安だ。

入れ替わり立ち代わり映画スタッフたちの前に出てきて、それぞれがそれぞれの日常生活を語っていく。あの語り口、立ち振る舞いで、こちらはもうこころ昂り血が騒ぐ。内容からして、映画人たちの日常を描くオムニバス形式の作品のよう。

撮影はそろそろ終盤に差し掛かっている。編集作業も進行していて、それぞれのカットを上手く繋げていく。流石にプロは巧みだ。

と、そのなかの一シーンで、部屋の中で撮影されていた俳優の姿が鏡に映っているところがあった。編集者は途端に慌てた。「やばいっ・・」声を発している。

ん・・・何・・・?

再生機に映し出されたそれを観て、僕も仰天。そこにはあの俳優とは似ても似つかない人の姿があったのだ。

何でだい?しかしそう語り掛ける間もなく、撮影はクランクアップ! 一同は、ご苦労様とそそくさと撤収に入る。屋外・屋内に組み立てていたセットも分解されていく。

僕も俳優たちの小部屋を訪れて挨拶をしようとする。あの人の部屋だ・・・。ちょうど帰り支度をしている女優さんの部屋に入らせてもらうと鏡の前に女優が居る。

しかし、だ。目の前はあの女優なのに、鏡の中は、素人女が立っている。どうしてなんだ。。。

男優女優たちが、次に出演する作品の脚本台本を手にしている。読み進めている人も居る。すると、その人の外観が変貌していくのに気づく。台本を読むことで、次の作品の主人公の姿かたちに変化していくのだ。

僕はそのときはじめて気づいた。演技する対象の人そのものになり替わることが出来る能力を持っているのが真の俳優だということを。直接に眺めたりレンズを通してでもそのものになりきることができる。ただし鏡の反射を通して迄はその効力は続かない。

それに気づくや否や、僕は河合奈保子を追い求めていた。彼女の姿はもうどこにも居なかった。それじゃあ演じていた女優さんでも良い、会いたいと思えども、行き交う人たちは全てが他人になっていた。

■上野駅シリーズ。『三相 智情意』(朝倉文夫)。
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# by k_hankichi | 2017-07-02 06:54 | 夢物語 | Trackback | Comments(1)

素朴な壁画に癒される

仕事で上野駅をたびたび通過するようになった。桜の季節のすこし前からは、改札口前広場には桜の造木、造花が飾ってあったりしてちょっと和ませる。今週も通過したときに、ふと天井と壁を見やると、そこには素朴なタッチの壁画がある。

何度も何度も通っているのに何故気付かないでいたのか不思議なのだが、マティスとゴーギャンと幼稚園児の絵を足して三で割ったような按配の作品で、 それが「自由」という題の 猪熊弦一郎によるものだと知った。

猪熊さんのことを調べてみて、意匠デザインから洋画、壁画、抽象画まで幅広く手掛けてきたことも知り、また顔だちはいかにも一家言ある芸術家という感じだけれど、なにか親近感が沸く。どうしてか考えていたら、僕の友人の一人が年を経るとこんな顔になるだろう、ということに思い当たった。

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# by k_hankichi | 2017-07-01 09:05 | 美術 | Trackback | Comments(4)
だいぶん前のことだけれど、カラヤンが指揮したアダージョ系の楽曲集CDが流行していた時期があった。タイトルも『アダージョ』で数種類出ていて、僕ももちろんそのなかの1枚を持っていた。

それは耳を傾けているだけで心が鎮まり、透明さを通して永遠というものにすこし晒されるものだったのだけれど、いろいろな作曲家がとっかえひっかえ出てくるので、それぞれの曲想の違いに応じてシフトギアを少々調整しなければならないところがちょっと苦手でいつしか忘れ去っていた。

そんななか最近知ったのが、『サンクトゥス (Sanctus)』という音盤。タリス・スコラーズによるルネッサンス作曲家6人によるミサ曲から抜粋した11曲の「サンクトゥス」からなる。6人とはジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(イタリア)、ジョスカン・デ・プレ(フランドル)、ウィリアム・バード(イギリス)、ヨハンネス・オケゲム(フランドル)、ドゥアルテ・ロボ(ポルトガル)、ジョン・シェパード(イギリス)だ。

ルネッサンス期の楽曲はどれもが定旋律をしっかり持っていて、そこから派生する和声の美しさは、どこまでもどこまでも純粋。透徹なる世界は全て中世のものだからギアチェンジが不要でただ心身を任せていれば良い。

解説は、ちょっとビックリしたのだけれどフジテレビの軽部真一アナウンサーが書いていて次のように結んでいる。高校、大学と合唱部に所属していたそうで、合唱や和声への憧憬は深い。

“まさに、声の個性を抑えて、他人の声と自分の声を融合していく、その快感であった。一人一人の声が違った魅力を持つだけに、それを殺して一つに溶けあっていく瞬間は逆に何ともいえない歓びとなる。個性を主張することはもちろん大事、しかし、時には、他と交わることで、人間の声のすばらしさを実感できる。このアルバムを聴くこと自体、人間であって良かった、声を持っていて良かった、そんな“サンクトゥス(感謝)”の気持ちになれる、至福の時間だ。”

和声というもの。それは個を主張しすぎないことによって、逆に予想だにしなかった素晴らしい結果を出すという行為なのだ。

暴言罵声を身近の人に浴びせたり、自分は正しいだの主張ばかりしているどこかの政治家たちに是非とも聴かせたくなった。

■曲目(すべてサンクトゥス)
・ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ:「ミサ・プレヴィス」から
・ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「ナシェ・ラ・ジョイア・ミア」から
・ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「パンジェ・リングァ」から
・パレストリーナ:ミサ曲「アンスプタ・エスト・マリア」から
・ウィリアム・バード:「4声のミサ曲」から
・ヨハンネス・オケゲム:ミサ曲「オ・トラヴァイユ・シュイ」から
・パレストリーナ:ミサ曲「ニグラ・スム」から
・ドゥアルテ・ロボ:ミサ曲「ヴォクス・クラマンティス」から
・ジョン・シェパード:「西風のミサ曲」から
・ジョスカン・デ・プレ:「教皇マルチュルスのミサ曲」から
■演奏
合唱:タリス・スコラーズ、指揮:ピーター・フィリップス 
http://www.thetallisscholars.co.uk/
■収録
1980~1997
■音盤
ギンメル PHCP-20054 
https://www.gimell.com/

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# by k_hankichi | 2017-06-30 06:20 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
先週末から根を詰めてページを繰ってきた小説を読了。『名誉と恍惚』(松浦寿輝、新潮社)。

本当は夏休み用に取っておこうと思っていたのだけれど、小説の舞台の場所に出張することになっていて、どうしても気になって読み始めたら止まらなくなって、気が付いたらぐいぐいと戦前のその世界に引きずり込まれていた。惹きこまれていたのではなく、引きずり込まれた。

“人種も国籍も貧富の階級もキメラ状に渾然一体となったこの上海租界という特殊な空間が、日々、彼の心身を淫靡に呪縛し、想像力を刺激しつづけたのではないか。その呪縛と刺激から栄養を受けて、異形の革命思想が彼の脳内に発芽し、怪物的な妄想の大樹へと生長していったのではないか。国家などいずれ急ごしらえで捏造された仮初の制度にすぎず、どのようにでも「改造」しうる、しえないはずがないと人にうかうか信じさせてしまうものが、この「魔都」とやらの持つ魅力なのではないか。”(「六 面会の約束」から)

2.26事件を起こした北一輝は、それに遡る10年以上前、上海に住んでいて、「国家改造案原理大綱」というクーデター計画を執筆したというが、そうさせたのがこの上海という都市のもつエネルギーだったという。異文化がぶつかりあいながらエネルギーを溜め込み人々の精神を覚醒させ高揚させる。

そうか、僕が今週感じた、圧迫されたかのような空気の密度というものが、あれだったのか。

小説の主人公は北とは異なるが、日華事変後の混沌のなか、あらゆる感覚を昂らせ、研ぎ澄ませ、初めて知る世界にも没入しながら、歴史の荒波に揉まれ生き抜いた。

己の感性の高揚を恍惚に変えて生きた男の、稀に見るハードボイルド物語だった。

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# by k_hankichi | 2017-06-29 00:37 | | Trackback | Comments(2)
ほとんど期待もせずに出張帰りの機中で観たのは、阿部寛と天海祐希主演の『恋妻家宮本』(遊川和彦監督、2017年、東宝)だった。→http://www.koisaika.jp/

それが半分滂沱の涙に溢れてしまい、またもやキャビンアテンダントの視線を避けるのに大変なことになってしまった。

学生時代に結婚し、子供も社会に巣立っていった50歳の夫婦、宮本陽平と妻・美代子に、二人きりの生活が始まっていく。中学校の国語の教師をしている陽平は、余暇を楽しいものにすべくクッキングスクールに通い始めるが、それを目の当たりにした妻は・・・、というように展開していく。

考えてみると僕らの世代の人間は多かれ少なかれ似たようなところがあり、ああこれは友人の彼だし、こちらは学生時代のあいつの境遇、そしてこちらは・・・と、当てはまるものが続々とでてくる。

愛妻ものの映画は『今度は愛妻家』が文句なく珠玉なのだけれども、この作品も仲が良いのか悪いのか分からなくなっている世代の夫婦の本当の心というものを、やさしく鋭く、ときにコミカルに描いていく。

さて僕の場合は、どうしたものか。涙のあとに、ハタと考えさせられる佳作だった。

■曇り煙った空の下にも沢山の恋妻家がいるだろう上海。
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# by k_hankichi | 2017-06-28 00:15 | 映画 | Trackback | Comments(0)
いささか出遅れた感はあるが、映画『ラ・ラ・ランド』(2016年)を観た。これは今年になってから観た映画のなかでは自分としては最高のもので、最後のシーンまで楽しめた。そして感涙してしまった。

もともと戦前戦後のMGM系ミュージカルが好きだった(それはあの『ザッツ・エンタテインメント』による触発啓発が大きい)ので、たいていのミュージカル映画は好きなのだけれど、この作品は、新しいタイプのミュージカル映画の形を提示したと思った。

どういうことか。

第一に、型に嵌っていない。このあたりでこの登場人物が歌い始めるだろうなあ、という予感を一切受け付けず、こんなところから歌ですか?と驚くようなところから歌になる。主体を為すストーリーも、ミュージカルということを一切感じさせず、ドラマとして素晴らしく楽しめる。のんべんだらりとした隙は一切ない。

第二に、歌の上手さを競わない。え?その音程?と感じるほど、少々調子外れでも歌いこなしてしまう大胆さが凄い。もちろん音楽はジャズもポップスも何もかも良く、タップダンスを始めとする踊りも素晴らしい。

第三に、主人公たちには作られた表情が一切ない自然さで満ちている。ミア・ドーラン役のエマ・ストーンは、デビューできない女優の卵。グラマラスでもなく超美人でもなく、しかし人の目を引く独特の美しさがある。昔から知っている友達のような親しみを感じる。ジャズピアニスト・セブ・ワイルダー役のライアン・ゴズリングの、いかにも音楽家らしい繊細さが良い。

最後のシーンは、もし仮に二人が結びついていたのならば・・・とエマ・ストーンが夢想するストーリー展開になっていて、それがまた胸が震えるほどにロマンティックだ。

「女がジャズを好きになるとき、それは恋の始まりである」、というサブタイトルが良く似合う、家族全員、老若男女で楽しめる素晴らしい作品だった。


■出張先の海外で出会ったクマモン(映画とは関係ないです)
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# by k_hankichi | 2017-06-27 00:19 | 映画 | Trackback | Comments(2)

曇天に聴くバッハ

梅雨の曇天の朝に聴く曲は、ヴィクトリア・ムローヴァによるバッハのヴァイオリン協奏曲集。ピリオド奏法による溌剌とした息吹の演奏だ。

僕はバッハのこの協奏曲たちが実は苦手で、アンネ=ゾフィー・ムターの演奏で少しその斥力が緩和され、しかしそこからの前進がなかった。

ムローヴァの弦は粘り気がなく、しつこさとは無縁。かといって淡白ではなく、袖すり合う程度の縁で保たれている。ことさらに擦り寄られることが嫌な僕にはぴったりだ。無論こうまでなると、実はこちらから擦り合いにいきたいくらいなのだけれど、この空気はそれを自制させる節度に満たされている。

これから向かう出張先での会議のなかでも、きっと通奏低音のように鳴り響き、心を緩和させてくれることだろう。

■曲目
J.S.バッハ:
・ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 BWV.1041
・ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV.1042
・ヴァイオリン協奏曲ヘ短調 BWV.1056
・ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ハ短調 BWV.1060a
■演奏
ヴィクトリア・ムローヴァ(vn)
フランソワ・ルルー(ob)
ザ・ムローヴァ・アンサンブル
アラン・ブリンド、ローレン・クェネル(vn)
エーリヒ・クリューガー(va)
マヌエル・フィッシャー=ディースカウ(vc)
クラウス・シュトール(cb)
ロバート・オールドウィンクル(cemb)
マルコ・ポスティンゲル(fg)
■収録
1995年、アムステルダム
■音盤
フィリップス PHCP-1481

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# by k_hankichi | 2017-06-26 06:39 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
昼前から、松戸の戸定邸(とじょうてい)に出掛けた。ここは徳川慶喜の異母弟にあたる昭武(水戸藩第11代藩主)が建てた家で、江戸川に臨む高台・戸定が丘にある。
http://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/

あまり期待もせずに訪れたそこは、周囲の喧騒から遮断された別天地だった。

時の将軍・慶喜の名代として幕末にフランスを訪れた昭武は、パリの万国博覧会の見学のみならず各国の当主たちと様々な外交を為し遂げていた。

歴史館には彼がフランス語でつけていた日記も展示されていて、その筆跡は陶酔してしまいそうなくらいに美しかった。

大政奉還があったことも知らぬまま、欧州内のあちらこちらを訪れ見聞と知己を広めた将来の将軍が、それを知りまた帰国せざるを得なくなったときの気持ちを思うといたたまれなくなった。

隠居するかの如く松戸の丘の上に暮らしながら。変わりゆく東京の町の姿を眺めていた彼の望郷とは、パリのことだったのかもしれない。

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# by k_hankichi | 2017-06-25 14:38 | 街角・風物 | Trackback | Comments(3)