音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

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だいぶん前のことだけれど、カラヤンが指揮したアダージョ系の楽曲集CDが流行していた時期があった。タイトルも『アダージョ』で数種類出ていて、僕ももちろんそのなかの1枚を持っていた。

それは耳を傾けているだけで心が鎮まり、透明さを通して永遠というものにすこし晒されるものだったのだけれど、いろいろな作曲家がとっかえひっかえ出てくるので、それぞれの曲想の違いに応じてシフトギアを少々調整しなければならないところがちょっと苦手でいつしか忘れ去っていた。

そんななか最近知ったのが、『サンクトゥス (Sanctus)』という音盤。タリス・スコラーズによるルネッサンス作曲家6人によるミサ曲から抜粋した11曲の「サンクトゥス」からなる。6人とはジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(イタリア)、ジョスカン・デ・プレ(フランドル)、ウィリアム・バード(イギリス)、ヨハンネス・オケゲム(フランドル)、ドゥアルテ・ロボ(ポルトガル)、ジョン・シェパード(イギリス)だ。

ルネッサンス期の楽曲はどれもが定旋律をしっかり持っていて、そこから派生する和声の美しさは、どこまでもどこまでも純粋。透徹なる世界は全て中世のものだからギアチェンジが不要でただ心身を任せていれば良い。

解説は、ちょっとビックリしたのだけれどフジテレビの軽部真一アナウンサーが書いていて次のように結んでいる。高校、大学と合唱部に所属していたそうで、合唱や和声への憧憬は深い。

“まさに、声の個性を抑えて、他人の声と自分の声を融合していく、その快感であった。一人一人の声が違った魅力を持つだけに、それを殺して一つに溶けあっていく瞬間は逆に何ともいえない歓びとなる。個性を主張することはもちろん大事、しかし、時には、他と交わることで、人間の声のすばらしさを実感できる。このアルバムを聴くこと自体、人間であって良かった、声を持っていて良かった、そんな“サンクトゥス(感謝)”の気持ちになれる、至福の時間だ。”

和声というもの。それは個を主張しすぎないことによって、逆に予想だにしなかった素晴らしい結果を出すという行為なのだ。

暴言罵声を身近の人に浴びせたり、自分は正しいだの主張ばかりしているどこかの政治家たちに是非とも聴かせたくなった。

■曲目(すべてサンクトゥス)
・ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ:「ミサ・プレヴィス」から
・ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「ナシェ・ラ・ジョイア・ミア」から
・ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「パンジェ・リングァ」から
・パレストリーナ:ミサ曲「アンスプタ・エスト・マリア」から
・ウィリアム・バード:「4声のミサ曲」から
・ヨハンネス・オケゲム:ミサ曲「オ・トラヴァイユ・シュイ」から
・パレストリーナ:ミサ曲「ニグラ・スム」から
・ドゥアルテ・ロボ:ミサ曲「ヴォクス・クラマンティス」から
・ジョン・シェパード:「西風のミサ曲」から
・ジョスカン・デ・プレ:「教皇マルチュルスのミサ曲」から
■演奏
合唱:タリス・スコラーズ、指揮:ピーター・フィリップス 
http://www.thetallisscholars.co.uk/
■収録
1980~1997
■音盤
ギンメル PHCP-20054 
https://www.gimell.com/

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by k_hankichi | 2017-06-30 06:20 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
先週末から根を詰めてページを繰ってきた小説を読了。『名誉と恍惚』(松浦寿輝、新潮社)。

本当は夏休み用に取っておこうと思っていたのだけれど、小説の舞台の場所に出張することになっていて、どうしても気になって読み始めたら止まらなくなって、気が付いたらぐいぐいと戦前のその世界に引きずり込まれていた。惹きこまれていたのではなく、引きずり込まれた。

“人種も国籍も貧富の階級もキメラ状に渾然一体となったこの上海租界という特殊な空間が、日々、彼の心身を淫靡に呪縛し、想像力を刺激しつづけたのではないか。その呪縛と刺激から栄養を受けて、異形の革命思想が彼の脳内に発芽し、怪物的な妄想の大樹へと生長していったのではないか。国家などいずれ急ごしらえで捏造された仮初の制度にすぎず、どのようにでも「改造」しうる、しえないはずがないと人にうかうか信じさせてしまうものが、この「魔都」とやらの持つ魅力なのではないか。”(「六 面会の約束」から)

2.26事件を起こした北一輝は、それに遡る10年以上前、上海に住んでいて、「国家改造案原理大綱」というクーデター計画を執筆したというが、そうさせたのがこの上海という都市のもつエネルギーだったという。異文化がぶつかりあいながらエネルギーを溜め込み人々の精神を覚醒させ高揚させる。

そうか、僕が今週感じた、圧迫されたかのような空気の密度というものが、あれだったのか。

小説の主人公は北とは異なるが、日華事変後の混沌のなか、あらゆる感覚を昂らせ、研ぎ澄ませ、初めて知る世界にも没入しながら、歴史の荒波に揉まれ生き抜いた。

己の感性の高揚を恍惚に変えて生きた男の、稀に見るハードボイルド物語だった。

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by k_hankichi | 2017-06-29 00:37 | | Trackback | Comments(2)
ほとんど期待もせずに出張帰りの機中で観たのは、阿部寛と天海祐希主演の『恋妻家宮本』(遊川和彦監督、2017年、東宝)だった。→http://www.koisaika.jp/

それが半分滂沱の涙に溢れてしまい、またもやキャビンアテンダントの視線を避けるのに大変なことになってしまった。

学生時代に結婚し、子供も社会に巣立っていった50歳の夫婦、宮本陽平と妻・美代子に、二人きりの生活が始まっていく。中学校の国語の教師をしている陽平は、余暇を楽しいものにすべくクッキングスクールに通い始めるが、それを目の当たりにした妻は・・・、というように展開していく。

考えてみると僕らの世代の人間は多かれ少なかれ似たようなところがあり、ああこれは友人の彼だし、こちらは学生時代のあいつの境遇、そしてこちらは・・・と、当てはまるものが続々とでてくる。

愛妻ものの映画は『今度は愛妻家』が文句なく珠玉なのだけれども、この作品も仲が良いのか悪いのか分からなくなっている世代の夫婦の本当の心というものを、やさしく鋭く、ときにコミカルに描いていく。

さて僕の場合は、どうしたものか。涙のあとに、ハタと考えさせられる佳作だった。

■曇り煙った空の下にも沢山の恋妻家がいるだろう上海。
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by k_hankichi | 2017-06-28 00:15 | 映画 | Trackback | Comments(0)
いささか出遅れた感はあるが、映画『ラ・ラ・ランド』(2016年)を観た。これは今年になってから観た映画のなかでは自分としては最高のもので、最後のシーンまで楽しめた。そして感涙してしまった。

もともと戦前戦後のMGM系ミュージカルが好きだった(それはあの『ザッツ・エンタテインメント』による触発啓発が大きい)ので、たいていのミュージカル映画は好きなのだけれど、この作品は、新しいタイプのミュージカル映画の形を提示したと思った。

どういうことか。

第一に、型に嵌っていない。このあたりでこの登場人物が歌い始めるだろうなあ、という予感を一切受け付けず、こんなところからですか?と驚くようなところから歌になる。主体を為すストーリーも、ミュージカルということを一切感じさせず、ドラマとして素晴らしく楽しめる。のんべんだらりとした隙は一切ない。

第二に、歌の上手さを競わない。え?その音程?と感じるほど、少々調子外れでも歌いこなしてしまう大胆さが凄い。もちろん音楽はジャズもポップスも何もかも良く、タップダンスを始めとする踊りも素晴らしい。

第三に、主人公たちには作られた表情が一切ない自然さで満ちている。ミア・ドーラン役のエマ・ストーンは、デビューできない女優の卵。グラマラスでもなく超美人でもなく、しかし人の目を引く独特の美しさがある。昔から知っている友達のような親しみを感じる。ジャズピアニスト・セブ・ワイルダー役のライアン・ゴズリングの、いかにも音楽家らしい繊細さが良い。

最後のシーンは、もし仮に二人が結びついていたのならば・・・とエマ・ストーンが夢想するストーリー展開になっていて、それがまた胸が震えるほどにロマンティックだ。

「女がジャズを好きになるとき、それは恋の始まりである」、というサブタイトルが良く似合う、家族全員、老若男女で楽しめる素晴らしい作品だった。


■出張先の海外で出会ったクマモン(映画とは関係ないです)
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by k_hankichi | 2017-06-27 00:19 | 映画 | Trackback | Comments(4)

曇天に聴くバッハ

梅雨の曇天の朝に聴く曲は、ヴィクトリア・ムローヴァによるバッハのヴァイオリン協奏曲集。ピリオド奏法による溌剌とした息吹の演奏だ。

僕はバッハのこの協奏曲たちが実は苦手で、アンネ=ゾフィー・ムターの演奏で少しその斥力が緩和され、しかしそこからの前進がなかった。

ムローヴァの弦は粘り気がなく、しつこさとは無縁。かといって淡白ではなく、袖すり合う程度の縁で保たれている。ことさらに擦り寄られることが嫌な僕にはぴったりだ。無論こうまでなると、実はこちらから擦り合いにいきたいくらいなのだけれど、この空気はそれを自制させる節度に満たされている。

これから向かう出張先での会議のなかでも、きっと通奏低音のように鳴り響き、心を緩和させてくれることだろう。

■曲目
J.S.バッハ:
・ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 BWV.1041
・ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV.1042
・ヴァイオリン協奏曲ヘ短調 BWV.1056
・ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ハ短調 BWV.1060a
■演奏
ヴィクトリア・ムローヴァ(vn)
フランソワ・ルルー(ob)
ザ・ムローヴァ・アンサンブル
アラン・ブリンド、ローレン・クェネル(vn)
エーリヒ・クリューガー(va)
マヌエル・フィッシャー=ディースカウ(vc)
クラウス・シュトール(cb)
ロバート・オールドウィンクル(cemb)
マルコ・ポスティンゲル(fg)
■収録
1995年、アムステルダム
■音盤
フィリップス PHCP-1481

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by k_hankichi | 2017-06-26 06:39 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
昼前から、松戸の戸定邸(とじょうてい)に出掛けた。ここは徳川慶喜の異母弟にあたる昭武(水戸藩第11代藩主)が建てた家で、江戸川に臨む高台・戸定が丘にある。
http://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/

あまり期待もせずに訪れたそこは、周囲の喧騒から遮断された別天地だった。

時の将軍・慶喜の名代として幕末にフランスを訪れた昭武は、パリの万国博覧会の見学のみならず各国の当主たちと様々な外交を為し遂げていた。

歴史館には彼がフランス語でつけていた日記も展示されていて、その筆跡は陶酔してしまいそうなくらいに美しかった。

大政奉還があったことも知らぬまま、欧州内のあちらこちらを訪れ見聞と知己を広めた将来の将軍が、それを知りまた帰国せざるを得なくなったときの気持ちを思うといたたまれなくなった。

隠居するかの如く松戸の丘の上に暮らしながら。変わりゆく東京の町の姿を眺めていた彼の望郷とは、パリのことだったのかもしれない。

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by k_hankichi | 2017-06-25 14:38 | 街角・風物 | Trackback | Comments(3)
借りてあった映画のDVDを観た。『サラの鍵』(原題:Elle s'appelait Sarah )。劇場公開のときに見逃してしまい、ようやっと観ることができた。

フランス人が自国民を自らの手でユダヤ人たちを収容所に送りこんだおぞましい歴史のなかで、一家族の女の子・サラが切っ掛けとなって糸のように繋がっていくさま描かれている。

彼女の家にその後住むことになったフランス人家族
生きながらえたサラがアメリカに作った新たな家族

ジャーナリストはサラの系譜や人生を探っていくにつれ、平穏に暮らしていたそれぞれの家族のなかにある秘密が明かされることになる。そのことが明かされていくことの当惑。

秘密にしてきたことを明らかにしたことで、沢山の摩擦が出たりするのだけれど、最終的にはそれでよかったのだということに気付いていく。

家族の系譜というものは、どのような人たちであろうとも、ほんとうに大切なものであり、ひとつとして軽んじられたり素通りしたりできないものなのだと思った。

最後のシーンでは、むせび泣くほどの感動を覚えた。

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by k_hankichi | 2017-06-24 18:43 | 映画 | Trackback | Comments(2)

梅雨の合間の好天に

嵐のような梅雨の合間に、少し薄ぼんやりと一層の霞みが掛かった晴れになった。あと半月か一と月もすれば、ギラギラと照りつける真夏日の連続になるだろうことを想起させる。

そのころには何をしているのだろうかと想像してみるが、やはり真夏でも休みともなれば神保町界隈や有楽町の裏通りあたりを街角探検しているのだと思う。

東京の街はその路地が江戸時代のまま大人になったようなところがあり、だからそれはきっとロンドンのそれに似ているだろうと仮説してみる。日本のそれはしかし鎖国から開国へ、そして関東大震災や非道な爆撃により壊滅された時を越えてのことで、それでも何事もなかったかのように街区が保存されていることにはやはり驚かざるを得ない。

東京の街角の表情は変われども、街区や路地のかたちはかなり原形が保たれていて、だから自然観察紀行としても十分に楽しめるのがこの町の飽きないところだ。

■過日の赤坂界隈からの都心の眺め
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by k_hankichi | 2017-06-23 08:56 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
クラシック音楽家が主人公の韓流ドラマの放映が始まった。『密会』。千葉テレビ・水曜夜7時だ。二年前にBSで放映がされその再放送だそう。

出てくる曲の数々に先ずは聴き惚れる。何気なくピアノ協奏曲『皇帝』のシーンが出てきたり、我流でピアノを弾く青年が見つかってしまって、試し弾きをさせられると、それはバッハの平均律やモーツァルトのピアノソナタ第8番イ短調だったりもする。

もちろん俳優も美男美女だからそれも嬉しい。

毎週の楽しみが増えた。


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by k_hankichi | 2017-06-22 06:03 | テレビ番組 | Trackback | Comments(2)
吉田篤弘の小説を読んでいると、たびたび、「あ、これ同じじゃん、僕と」というようなシーンに出くわす。『空ばかり見ていた』(文春文庫)もそうだった。

連作風の短篇集のなかの「モンローが泊まった部屋」では、次のような部分。

“その無数の名演が刻まれたレコ―ド群の中から彼女が好んで聴いたのは、かならずベートーヴェンの最後のピアノソナタ、第32番のそれも第2楽章のみと決まっていた。(中略)そこで唐突に曲調が一変し、それまで静かにゆっくり一音一音刻むようだったのが、指が鍵盤の上を駆け巡るような速さに転じてしまう。(中略)そうして二分後に再び楽曲が再び静けさを取り戻すと、彼女は水から上がったようなおもむきで、わたしの顔を見直しながら、必ずこう言ったものだ。
「で、なんの話でしたっけ?」”

子供の頃の大切な思い出がふと蘇るような甘酸っぱさが顔を出す、彼の小説のなかに、時折織り込まれる、こういう小話のようなものが、とてもたまらなく好きだ。


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by k_hankichi | 2017-06-21 21:48 | | Trackback | Comments(4)