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しっかりと読めた対談

対談というのは、僕にとって「コミック」並みに苦手な読み物だ。だからできるだけ遠ざけてきた。

たぶん、対話の空気や行間を読む、ということが苦手だからかもしれないし、対話のなかに時折入り込む「ははは・・」とか「(笑)」という字面に、ぞっとするような気持ちになるからかもしれない。コミックでも「こっ、これは・・・」みたいな吹き出しが分からない。

そんななか『『深い河』創作日記』の付録に入っていた対談・『『深い河』操作日記を読む』(三浦朱門、河合隼雄)があって、どうなのかなあと思いながら少し読み始めた。いつもと調子が違うのに直ぐに気付いた。どんどんと中身が頭に入ってくるのだ。

遠藤さんに対する篤い友情にも溢れた素晴らしい対談だった。

次のような三浦さんの言葉に、遠藤さんの最後期の思いを重ねた。

“初期のキリシタン時代の日本人たちが洗礼を受けることに対する抵抗感の一つは、「キリスト教の存在も知らずに死んだ我が親たちは、地獄の業火で永遠に焼かれているのか」ということです。それが、異教徒が回心するときの大きな問題点だった。遠藤の場合には、それはヨーロッパへ行ったときの違和感と重ねられて意識されていると思う。けれども彼は、それでいいんだ…南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、インシャラーであろうとアラーアクバルであろうと、結局は大きな河の流れのなかで一つになっていくんだ、そううう考え方だと思います。しかし遠藤にとっては、神というのは子供のときから懸命にこだわってきたものしかないけれども、だからといってそうではない他の人たちも救われないことはないので、救わなきゃいけない…という意味はあると思うんです。”

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by k_hankichi | 2017-02-28 07:58 | | Trackback | Comments(0)
あれだけの大作家だから、中長篇小説の一つくらい、お茶の子さいさいだろうと思っていた。それが全く違うのだということが分かった。『『深い河』創作日記』(遠藤周作、講談社文芸文庫)。

日記を読んでいると、あの作品の構想のみならず、伝えようとしたいこと、登場人物に何を語らせるか、なども刻々と変遷をたどって行く。最終形を僕らは読んでいるわけだが、没になった結末があった。それは暴徒に殴られた大津が亡くなり、それを知った美津子がガンジス川に入って沐浴をするというもの。

こちらの方が良いなあ、と思いつつ、どうして遠藤はいまの結末にしたのか。

二人の愛は添い遂げられない、すれ違うことが普通なのだという、生きることへのある種の諦観や哀しさを表そうとしたのではないか、と思った。

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by k_hankichi | 2017-02-27 07:38 | | Trackback | Comments(3)

『深い河』における探求

ブログ友人の薦めだったが、読んでみて良かった。遠藤周作の『深い河』(講談社文庫)。

“「それではお前にとって神とは何なのだ」
と修道院で三人の先輩に問われて、ぼくはうっかり答えたことがあります。
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草木をも包む、あの大きな命です」
「それは汎神論的な考えかたじゃないか」
それから三人はスコラ哲学のあまりに明晰な論理を使って、ぼくのだらしない考え方の欠陥を追求しました。これはほんの一例ですけれど、でも東洋人のぼくには彼等のように何ごともはっきり区別したり分別したりできないのです。

最晩年の遠藤は、自らのキリスト教信仰について、東洋的なる視点を加えて思索を深めていたのだと知った。輪廻転生のような観点まで加え、ヒンズー教の考えにも共感を示した。

深い河とは、ガンジス川の深さだけでなく、あらゆる宗教をも超えた深い思索の溝なのだと、ようやっとわかった。



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by k_hankichi | 2017-02-26 17:59 | | Trackback | Comments(2)
イタリアオペラが苦手で仕方がなかった。だから大学時代の音楽クラブでそれを研究している会派から遠ざかっていたことは不思議でも何でもない。

それから幾十年。今週、TBSドラマ『カルテット』の第6話を観ていたら、1stヴァイオリンの巻真紀と夫の幹生の二人に心の隙間、すれ違いが生まれたときにイタリアオペラが流れた。ああ、この曲は・・・・、と思う一方で、その旋律がドラマのそのシーンにぴったりとマッチしているなあと深く灌漑している自分に気付いた。

マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲。

とても久しぶりに聴いたこの音楽は、疲れ切った身や心を任せるのにとてもよく、春になりゆくこの時の移ろいがとても大切なのだということが、自然に受け入れられるかのよう。それとともに、学生時代の先輩の気持ちが少しづつ分かってきた。
■マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲 https://youtu.be/1V9kMKS9E2o
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By Voceditenore - mascagni.org Transferred from en.wikipedia to Commons., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5149184

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by k_hankichi | 2017-02-25 17:54 | テレビ番組 | Trackback | Comments(2)
又吉直樹の『火花』をようやく読んだ。文春文庫。

漫才コンビたちの心や生きざまを描いたもので、僕にはあまり接点はなかったのだけれど、自分たちの芸を磨き、それを認めて貰いたいと願う気持ちの純真さに吐息がでた。

小説のあとには芥川賞受賞記念エッセイ「芥川龍之介への手紙」が収められていて、それはまさに現代版・太宰治の筆致。もし太宰治が芥川賞を獲得していたら、こんなふうに書いただろうなと思って、微笑んでしまった。

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by k_hankichi | 2017-02-24 07:37 | | Trackback | Comments(2)
芥川賞作家でもある松浦さんは、東大教授を定年よりも7年も早く退官した。その記念講演と最終講義を収めた本が『波打ち際に生きる』(羽鳥書店)だ。鮮やかなまでに美しい引き際において、それまでの軌跡を振り返りながら淡々と述べていく。

“波打ち際とは、波が打ち寄せてくる「場」であるわけですが、同時に、絶えず寄せては返しつづける波の運動という「出来事」それ自体なのだと思います。その出来事には一種特有の心もとなさがまとわりついており、そして、その心もとなさ自体をいとおしむという、いとおしみの感覚とも結びついている。(中略)わたしが実人生の波打ち際で、また精神の波打ち際で出会った、いとおしい何か。それは言葉であったりオブジェであったりイメージであったり、さまざまな形を取るわけですが、そんな出会いを契機として自分のなかに喚起されたものを、自分なりの言葉に置き換えてみようとした種々の試みが、あるときは論文となり、あるときは詩となり、あるときには小説になっていったのではないかと思うのです。”(退官記念講演より)

自分も社会人としての勤めを退くとき、こういうふうな確信と展望と、そしてすこしの悔悛を、さまざまな邂逅への感謝とともに述べられたら、と思った。

最終講義のほうについては、締めくくりの言葉を吉田健一の『時間』から「夕方の光線」の部分について抜粋して朗読している。ああ、この最後の言葉が発せられるその場に居られたらならば、どんなに幸せなことだったろうか。

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by k_hankichi | 2017-02-23 00:06 | | Trackback | Comments(4)

美しい夢うつつ

時と時代というものが区切られて、それらはほぼ四角い形をしたブロックでもって表現されるようになった。僕たちは自分らそれぞれの生きざまを、そのブロックに込めて一つ一つを壁に積んでゆく。

壁から数歩離れて眺めるだけで、埋め尽くされたブロックがなす人々の生きざまや、歴史の変遷が見られるようで圧巻だ。

それぞれの人が経験し体験してさらに心身の外に体現したり昇華させた内容に応じて、ブロックの色、紋様、柄、微妙な形状が変わってゆく。それは集合化されると歴史の移ろいのような大きな紋様や色彩の変遷として現れている。

なんと美しいのか、と僕は息を飲んで眺めていた。ある一つは水晶のように透明であり、その隣は薄青い色がついている。さらにその隣は水晶のように見えるが表面に微妙なスリークが幾重にも走っている。

それぞれはしっかりと存在感を放っている。音を立てず静かに佇んでいる。

知らぬうちに僕の手には時計が握られていた。誰が僕に渡してくれたのだろうか。時計といっても砂時計になっていてハッとする。意味を探ろうとすれども心当りがない。

暫くするうちに砂時計は気付かないていどのゆっくりさで少しずつ融解を始めている。それはブロックの形を目指していることを僕は言われなくても予測した。

何色のブロック。どのような表面模様。透明感は如何ばかりか。

自分では分からないのだけれど、こうしたいなということや、壁のどのあたりに重ねて置かれたいかは、深層の無意識によって選択が済んでいるよう。

どうにかなる。身も心もその自然の摂理に任せておけば良い。そういう静かなる、極めて鎮まった間がそこにあった。

そうして朝がきた。

■出張先で立ち寄ったパステル画展覧会の絵。形は違うがこのような温かな印象の世界だった。
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by k_hankichi | 2017-02-22 07:50 | 夢物語 | Trackback | Comments(2)

映画技法の魅惑

丸の内の丸善1階の片隅に、作家や名士による推奨本コーナーがひっそりとあった。あまり期待せずに眺めていたら、先ごろ直木賞を得た恩田陸による推薦本が幾つかあり、なんとなく気になってそのなかの一冊を買い求めた。『映画術』(塩田明彦、イースト・プレス)。

読み終えて、ますます映画を観たくなり、そして紹介されている名作の数々に触れてみたくなる。

これまで親しんできた蓮實重彦の高踏派的評論とは一線を画し、どのように映画を観るのか、分かるべきなのか、そして演ずるのかという視点で映画のコマ落としもふんだんに挿入して書かれている。

著者は映画監督。創る側のロジックを深耕し、推察まじえて種明かしをしているから面白い。

映画美学校アクターズ・コースという俳優志望の生徒むけの連続講義から採録されたもので、「演技と演出の出会う場所から映画を再考する」という視点で構成されている。

“結局のところ、演技というものの最初の拠り所は、自分自身の経験、記憶、日比の観察、他者の観察、それしかないんです。その繰り返しによって、自分が日々無意識的に過ごしてきた時間のすべてを意識して、同時に、自分の無意識の底に眠っているありとあらゆる経験の引き出しを手探りで開こうとする。だから無意識が厚くはならずとも活性化し、流動化する。するとその人間の顔が変わるんです。” (「第二回 顔」より)

“小津安二郎という人が、なぜ俳優を無表情にするのか、なぜ俳優の内面を露出するような芝居を禁止するのか、俳優に対して「機械的に動け、無表情になれ」と要求するかと言うと、〜皆さんも小津映画を観ると不思議に思いますよね?〜表情を消すことによって「場」が立ち上がるからなんです。ここでは、岩下志麻が置かれた「場」が立ち上がってきています。(中略)それが、いわゆる小津の「残酷さ」と呼ばれるもので、ここでは処刑宣告のような「場」が作られているんです。”(「第三回 視線と表情」より)

僕らの日々の生活や移ろいも、まさしく意識せずに起きていることや、無意識に振る舞っていること。映画というのは、そういうことの真相真意を表す試みなのだと気付かせてくれる。

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by k_hankichi | 2017-02-21 07:54 | | Trackback | Comments(4)
テレビを点けたら、いきなりチャイコフスキーのくるみ割り人形の「パ・ド・ドゥ」で、つまりあの「永遠のドーシラー、ソファミレ、ドー」で、おもわず腰を浮かした。

番組は「四大陸フィギュアスケート選手権2017」だったが、スケートの素晴らしさにではなく(もちろんウズベキスタンの端正なる顔立ちの彼はとても上手だったのだけれど)、BGMのオーケストラの旨さに、思わず声を上げてしまった。いったいどこのオーケストラなのだ。

冬はバッハだぞと、ずーっと聴き続けてきた自分のあたまのなかで、春が初めて芽生えた夜だった。

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Photo by Strigo, from: https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=432454

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by k_hankichi | 2017-02-20 00:14 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
この週末は、久々に家事に没頭。家のなかの整理整頓に勤しんだ。少なかずらのものが不要と判別され、種類ごとに幾つかの束にしてリサイクル店に持ち込む。

どうなるんだろうなと思って待っていたら、想定以上の高値での買い取りをして頂けた。何だか得をした気持ち。だからかもしれない、あぶく銭は貯めるなという声に誘われてセコハンCDの棚をそぞろ眺めていく。

と、どうしたことか。

ベルギーのフィリップ・ヘレヴェッヘが指揮したバッハの宗教曲の複数枚組の音盤(最初の録音のやつ)が4種、そして、聴いたことはないハープシコ―ド奏者による平均律(Complete)が1種、見いだされた。そのどれもが何とたったの500円。

こ、これは・・・・。

周囲の人々の目を確認しながら、そそくさとレジに向かう。

溜まったポイントも使ったら、しめて1580円で買えてしまった。

幸甚というものは、どこから降ってくるのかわからない。もちろん、これらがこんな値付けになってしまっていることに、世知辛いというか、少々の哀しさも抱きながらなのだけれど。

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by k_hankichi | 2017-02-19 19:37 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)

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by はんきち