音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です

by はんきち

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友人たちが皆読んでいると聞き、これは直ぐ読まねば、と出張先で買い求めて昨晩読了。『ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』(青柳いずみこ、中公新書)。

期待通りのマニアックさで、青柳さんらしい温かな目で見たシニカルさも満載。

ポーランドの威信を懸けたコンクールは、音楽界の政治とともに蠢いている、という、半ば想像していた通りの状況に、ふむふむと頷くばかり。

終章で著者が締め括った次のような言葉が、良質の演奏を聴き終えたときのようにいつまでも心に響いた。

“従来の演奏や指導による固定観念にしばられて耳慣れない解釈を否定するのではなく、意図を理解した上で、ショパンにふさわしいかどうかを判断してほしい。どんな突飛な解釈が出てきても対応できるように、よってきたるところを理解し、裏づけのないものはそれと察知するために情報交換の場、勉強会も必要になってくると思う。(中略)「こんなのはショパンではない」という理由で“世に知られる前の段階で”振り落とされてきた無数・・・本当に無数のコンテスタントたちの無念の思いに応えるために。”(「終章 コンクールの未来、日本の未来」より)

ショパン・コンクール - 最高峰の舞台を読み解く (中公新書)

青柳 いづみこ / 中央公論新社

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by k_hankichi | 2016-09-30 07:57 | | Trackback | Comments(4)
アファナシエフがエリザベート王妃国際楽コンクール(1972年)で優勝出来たのは、課せられたシューベルトのピアノソナタ第20番イ長調D959の出来がとても良かったからだと、件の本に書いていた。

その曲について、辞典ウィキペディアの解説では、何とそのアファナシエフの言葉が使われている(これを挿入した人の眼力にも敬服する)。

「第2楽章 Andantino 嬰ヘ短調 3/8拍子
寂しい曲想(三部形式)。中間に幻想的な激しい展開があり、前楽章との均衡をとっている。最後にベートーヴェンの運命の動機に似た後打音があり、強い影響が表れている。アファナシエフはこの楽章の不気味な恐ろしさを指摘し、後続楽章では当楽章の緊張感を支え切れていないと述べている。」(1997年の音盤の解説からだそうだ)

いま、仕事でみちのくに来ている僕がアクセスできるシューベルトは持ち合わせのウォークマンしかなく、そこにはアファナシエフのふたつの音源のみ有った。

■2005年10月23日、浜離宮朝日コンサートホール(ライヴ)、レーベル~若林工房

■1997年3月、ハノーファー、レーベル~日本コロムビア

確かに第2楽章の落ち込みようと言ったら奈落の底とも言える。

どちらが奈落かといえば、問答無用に1997年の演奏。ひとり耳を傾ける夜のしじまが大層おっかなくなる。胸の鼓動が頭蓋骨まで響く。

論理的なベートーヴェンには出来ぬ理に反した情動の極み。しかしそれを何の躊躇いもなく遣りおおせてしまえるのがシューベルトなのだと、ようやく分かった。

さてそのアファナシエフ。来月の来日公演の曲目を調べてみたら、何と驚き、この曲ではないか。

もはや僕は居ても立ってもいられなくなった。

みちのくの夜をひとり静かに送ることには、思いもよらずの意味があった。

シューベルト:ソナタ 第20番&3つのピアノ曲

アファナシエフ(ヴァレリー) / インディーズ・メーカー

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シューベルト:ピアノ・ソナタ第19番&第20番&第21番

アファナシエフ(ヴァレリー) / 日本コロムビア

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by k_hankichi | 2016-09-29 07:43 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(5)

みちのくの朝

目覚めるとそこはみちのくで、ひなびた街の屋根屋根の先に山並みが見えた。ちょうど朝日が雲間から射しこむところは天の羽衣が舞い降りてくるところのよう。

それらを展望する場所で湯に浸かっているだけで、もしかするとこの時間の流れは永遠に続くのかしらんということがふと頭の隅をよぎった。

稲穂が黄色くこうべを垂れる。ここはもう秋も真っ盛りなのだ。

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by k_hankichi | 2016-09-28 07:47 | 街角・風物 | Trackback | Comments(0)
ここ数日、記憶の大切さということが頭の中を巡っている。ようやっと読了した『ピアニストは語る』(ヴァレリー・アファナシエフ、講談社現代新書)のなかでも、次のように語られていた。

“プラトンの『メノン』などの対話篇によれば、知識とは想起(アナムネーシス)、すなわち自分がすでに自らの裡に持っているものを想い起こすことだというのです。あなたの心は、すでにすべてを持っている、だからプラトンは、知識の一側面としての記憶について語ったのです。あなたはすべてを知っている、しかしこの知識を、自ら思い出さなければならない。ほんとうの知識は、外から来るのではないのです。
(中略)
わたくしの考えでは、芸術とは他者とのコミュニケーションではなく、愚かさへの抵抗の行為なのです。外部に行って、いったんは受け身になって何かを得る。しかしヘーゲルも言うように、その得たものと共に再度みずからに回帰し、このプロセスによってさらに自分を豊かにし、自分の思考の幅を広げ、仕事の射程をさらに長いものにする。哲学者にとってだけではなく、ピアニストにとっても孤独が重要だと私が考えるのもそのためです。”(「第1部 人生」より)

アファナシエフのピアノを聴いていると、そこには作曲家でもなくピアニストでもなく、そしてまた一人の表現者ということでもなく、「一人の人間がそこに居る」、と感じるのはなぜなのかが、ようやくわかってきた気がした。

ピアニストは語る (講談社現代新書)

ヴァレリー・アファナシエフ / 講談社

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by k_hankichi | 2016-09-27 00:25 | | Trackback | Comments(4)

深い感慨に包まれる秀作

久しぶりに読み応えのある小説だった。『狩りの時代』(津島佑子、文芸春秋)。今年亡くなられた著者の遺作だ。

テーマは「差別」である。僕ら一人ひとり、人間の一人ひとりに問いかけられているようで、心の底が抉られていくように感じる。

舞台は日本と米国、そして欧州まで踏み込んで、第二次世界大戦の前から戦後日本、そして現在まで。そのスケールにも深く吐息をつく。

ウンベルト・エーコが説いているように、記憶が積み重なって交錯する。幼いころに投げかけられ、心に傷を負わされた言葉が呼び起され、そしてそれを発した人は誰なのかが最後に明らかになる。それはシェイクスピアの悲劇のような佇まいだ。

娘さんがあとがきを書かれている。

“私は夢中で作品を読んだ。読み進めるうちに母が話していたことが次々とよみがえる。ダウン症だった兄との思い出。大家族の空気。人々の視線。記憶をたどる手触り。こうしてひとつの作品に編み上げられて、初めてその意味が理解できる。
それは出逢ったことのない差別の話だった。
描かれているのは、差別とはなにか、いや、人間とはなにかという問いだ。どうしたら差別を乗り越えられるかと言っているだけで差別をわかったつもりになっていた。目をそらしてきた心のなかを突きつけられて、人間の複雑さを思い知らされた。この作品をいま、差別のなかで生きる人々に届けなくてはいけない。”(以上、津島香以による文章から抜粋)

太宰治は、津島美知子とのあいだに3人の子供(長女園子、長男正樹、次女里子[本作品の著者])を設けているが、これはこれからの人々がどのように生きていくべきかを問う形で、亡き兄に捧げた作品でもあるのだとも思った。

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狩りの時代

津島 佑子 / 文藝春秋

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by k_hankichi | 2016-09-26 06:56 | | Trackback | Comments(3)
「私たちの存在は私たち自身の記憶にほかならない。記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」

ウンベルト・エーコは言う。いっぽうで、人は簡単に記憶を失う。人の記憶はあてにならない。そのようにも彼は考えている。だからこそ記憶を失ってはならない、と彼は繰り返している。

ミラノの自宅で撮影されたこの映像のなかでエーコは、迷宮のようになっている書架に囲まれたなかで、自分自身の持つ記憶を紡ぎ出すかのように語っている。

何度も観ているうちに、僕も自分の記憶ということがどれだけ確かなのか分からなくなり、なんだかとても不安になった。

※以下、2015年のヴェネツィア・ビエンナーレ美術展のイタリア館展示ビデオ。

■Umberto Eco, Sulla memoria. Una conversazione in tre parti, 2015. Parte 1. Regia di Davide Ferrario →https://youtu.be/Hq66X9f-zgc

■Part 2. https://youtu.be/zj1kwT87ne0

■Part 3. →https://youtu.be/B-M8V0PcCrw

 
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by k_hankichi | 2016-09-25 00:41 | | Trackback | Comments(0)
以前、ドイツ人と話をしていて『薔薇の名前』が最もお薦めだ、と言われていながら、ウンベルト・エーコにはなかなか手を出せていなかった。量塊を前にして尻込みをしていた。

そんななか、先週、ふと訪れた書店の店頭でこの本を知り、結局、出張の往き帰りで読了。『ヌメロ・ゼロ』(河出書房新社)。登場人物はほぼ8名。彼らはミラノのある富豪筋から、新聞のパイロット版を出す依頼を受けて画策している。真の目的は何か。それを彼らは知らない。しかし、政治経済の中枢に居る人々を脅かそうがためであることは感づいている。

パイロット版を第0号(ヌメロ・ゼロ)と称し、第0-1号から、0-12号まで出すべく、さまざまな試行を繰り返し、ダメ出しをされながら、徐々にスキャンダラスな新聞の見本が出来上がっていく。イタリアに巣食う、第二次世界大戦時期からのさまざまな陰謀と展開が、垣間見られて来る。その結末に待ち受けるものは何か。

本のカバーの見返しには、著者の次のような言葉が記されている。

「記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う。」

イタリア人や西洋人がもっているだろうそれらの時代の記憶の欠片を僕は持ち合わせていない。極東に生きる我々には、ちょっとピンとこない。それでも、その裏に蠢くものの空恐ろしさ、そしてそこに触れた瞬間生きて帰ってこれないこともあるのだということは予想できる。

初めてのウンベルト・エーコの世界は、僕には粘度が高すぎたのだけれど、次のような台詞が中にはあって、それには救われた。作家の子供のころの体験(記憶)に根差したものだと思ったからだ。

“あの晩、マイアはベートーベンの交響曲第七番をかけた。そして、目を潤ませて、少女時代から第二楽章になると涙ぐんでしまうのだと言った。「十六歳のときからなの。お金がなくて、たまたま知っている人がただで劇場の天井桟敷に入れてくれた。でも、席はなかったから、階段に座り込んで、いつの間にか寝そべってしまった。堅い木の床だったけど気にもしなかった。で、第二楽章で、このまま死にたいなって思って、泣いてしまった。私、ちょっとおかしかったのよ。でもまともになってからも泣き続けた」”(「六月六日 土曜日」より)

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ヌメロ・ゼロ

ウンベルト・エーコ / 河出書房新社

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by k_hankichi | 2016-09-24 09:37 | | Trackback | Comments(2)
お彼岸だった。昼過ぎから台所では様々な支度が行われ、晩ごはんは満韓全席のようになっていた。

その真ん中に鎮座するのが、おはぎである。「お彼岸である、皆ものども食べよ」というような趣旨の説明があり、さらに「これは主食ではないから、ごはんもしっかり食べるように」という沙汰がある。

おはぎの中身は餅米で、だからこれは主食では?という疑議が出ようとも、「否、主食に非ず、おかずなり、食べよ」という指示。

しかたなく両方を食し、彼岸に感謝を捧げる。

さて本日。

いつもの出張のため朝が早い。朝ごはんは?との問いに対して、「ごはんは昨日のおはぎを食べてね」との返事。

「ん?おはぎは、ごはんではないのでは?」

問いには答えが返ってこない。仕方がなく、件のおはぎと味噌汁で腹を満たす。

「おはぎは主食には非ず、然してごはんなり」

おはぎは変幻自在の存在と知った。

■その名残のおはぎ
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by k_hankichi | 2016-09-23 06:29 | 食べ物 | Trackback | Comments(4)

始随芳草去、又逐落花回

「始随芳草去、又逐落花回」という句を漱石が好んで書いた、それを世話になった雲水が後から知って弔電として送ってくれたとあった。 しづごころなく 花の散るらむ。というような歌を知ったときに近い感銘を受けた。

『漱石の思い出』(夏目鏡子述、松岡譲筆録、文春文庫)は圧巻で、よくぞここまで漱石との生活を記憶しているものだと舌を巻く。

小説の世界だけでしか知らなかったこの作家の、私生活がこのように波乱万丈であったとは。再び、あの小説の数々を読み直したいと思った。

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漱石の思い出 (文春文庫)

夏目 鏡子 / 文藝春秋

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by k_hankichi | 2016-09-22 20:44 | | Trackback | Comments(3)
先週末、馴染みの中古レコード店にいつものように立ち寄り、ひととおり店主とお喋りをしたあと音盤探しをしていた。

その時、新しい曲が掛かり始めた。不思議なる魅力を備えたヴァイオリンソナタだった。

そこには少し俯きがちな姿勢から、新たな明日を見つめようというような雰囲気があった。儚さ(少しの不安)に健全なる溌剌が混じった様相。手は音盤に次々と触れながら、耳と頭はその音楽に捕らわれて、生ける浮遊人のようになっていた。

第二楽章に入って更に心が震えた。こ、この繊細さはなんなの?いきなり女言葉になりそうになる。

第三楽章はこころに寄せては返す、たおやかなる波だ。その波は僕をしっかりとさせようと緩急を混ぜながら、並走者のように触れるか触れないかのようにしてくれている。

クライマックスに於ける、温もりが何層の厚みになったような血潮に気倒されそうになりながら、それは締め括られた。

思わず店主を見返した。

「はんきちさんが好きそうかなと思って」

黙って頷いた。そして確かに買い求めていた。

「この音盤が無くなると淋しい・・・」

後ろ髪を引かれるようなその声が、店をあとにするときにこだましていた。

フランク & エルガー : ヴァイオリン・ソナタ

五嶋みどり / ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル

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by k_hankichi | 2016-09-21 07:50 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)