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東京からムンバイ。11時間5分もかかるということを知らなかった。ジェット気流の影響によるものだろうけれども、アメリカの西海岸に行くよりも時間がかかり、身体はくたくたになる。空港で外に出てみれば、熱波が押し寄せて驚く。夜の8時でも33℃なのだ。上着の下の肌が一気に汗ばむ。あまりの気温差に、鼻がむずむずしてくる。

夜の闇を宿に向かう。オートリキシャがたくさんの客を乗せて、ひしめくように走っている。薄暗い照明のもと、道路に沿って食い物屋が立ち並ぶ。人々が波のようにそのまえをぞろぞろと歩いている。そのてんでんばらばらさに、呆気にとられる。車窓から外を眺めていると、向こうもこちらを覗きこんでくる。あわてて目を反らす。

この長い時間、機内では小説1冊を読み終えていた。それがいまの心に波紋を投げかけている。とてもメランコリックな感覚に陥らせた。『堕天使のコード』(アンドリュー・パイパー、新潮文庫)。今年の新作小説だ。

父と娘は、ともに生きているということについての不安感、居心地の悪さを持っている。閉じこもった心が向かうものに抗おうとしている。娘の葛藤を知り、自らの過去の経験とそれが重なる。悪魔の存在をばっさりと解体する宗教学者の父親は、娘とともにヴェネチアに誘き寄せられる。

父親のほうは何者かに追い詰められ、自らの存在意義を問われる。娘は父親がそのような境地に陥ったことを知らぬが、しかし、彼女は彼女で自分自身の不安に耐えかねてこの世を去る。父親はそれを認めきれずに、アメリカ大陸を彷徨う。

そして最後に父親は悟る。自分自身が持つ存在の不安感は、かつて父親の親が犯した怖ろしい罪によるものだったということを。そして娘は、そのことを直感的に感じ取っていたということを。その意味で、娘は父親の代わりにこの世から去ったことになる。

この小説はだから一言で言えば、「父娘の愛によるさすらいと、人間の原罪からの救済」ということになろうか。

著者のAndrew Pyper(→http://www.andrewpyper.com/)は、1968年カナダのオンタリオ州ストラトフォード生まれ。モントリオールのマギル大学で英文学の学士・修士、トロント大学で法律を学び弁護士資格も取得している。

小説は次のジョン・ミルトン『失楽園』からの言葉とともに始まり、作品中にも散りばめられている。

“われわれが目を覚ましている時も、眠っている時も、たとえわれわれの目にはふれなくとも、幾百万の天使たちがこの地上をあるきまわっている。”

“心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ。
地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ。”
(悪魔も天使も、天国も地獄も、それらはれっきとした人間の生の一部だ、とする。)

“おお太陽よ、だが、それはお前の光を
いかにわたしが憎んでいるかを告げるためだ。
お前の光を見ていると、
自分がいかに高い地位から堕ちたかを思い出す・・・・”
(悪魔の独白。堕ちたおのれの境遇を呪い、自ら追放された闇のなかに惑うおのれの姿を浮き彫りにする昼の光を呪っている。)

“知るということが罪であり、
死である、とどうしていえるのか?”
(サタンが知を与えることでイヴを誘惑し人間を滅ぼそうと企てるくだり。)

“戦慄すべき一大牢獄、四方八方
焔に包まれた巨大な焦熱の鉱炉。
だがその焔は光を放ってはいない。
ただ目に見える暗黒があるのみなのだ。
そしてその暗黒に、悲痛な光景が照らし出されている。”
(自分が内側から外へぱっと開かれた感じだが、それが光ではなくて真っ暗のなかに投げ込まれた、どんな光よりもよく眼に見える暗黒に、という説明とともにある。)

翻訳版元の紹介文を最後に添付しておく。

“ミルトンの『失楽園』を研究するウルマン教授は、〈やせた女〉からヴェネツィアへ行って悪魔学者としての力を貸してほしいと頼まれる。自分は英文学者にすぎないと反論するも航空券などを渡される。最近殻にこもりがちな11歳の娘を元気づけようと二人でヴェネツィアへ。だが、そこで娘は姿を消してしまう。あたしを見つけてと言い残して。国際スリラー作家協会(ITW)、2014年最優秀長編賞。”

■ムンバイの夜・・・ホテルの窓から見える一棟のアパルトメント。それぞれの家庭の灯が妖しく光る。
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■ムンバイの朝・・・アパルトメントは夜の姿と違っている。隣の美しいビルと比べると煤け哀しい。
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堕天使のコード (新潮文庫)

アンドリュー パイパー / 新潮社

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by k_hankichi | 2014-11-30 13:59 | | Trackback | Comments(2)
車窓には曇天。僅かに明るい雲間の裏に陽が隠れているとは思えないほど、なにか物哀しい風情だ。

聴いている音楽が更に拍車を掛けている。セルゲイ・ハチャトリアンによる バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータだ。

追い討ちを掛けるのは、ミルトンの『失楽園』が題材になっている海外小説。その主人公のメランコリアな心情に僕自身の姿を重ねて読み進めている。

アルプレヒト・デューラーの版画『メランコリア』のことが頭に浮かび、浮かんだかと思えば自分がその絵のなかに居るかのように思えてくる。別の版画にある騎士とその影にいる悪魔の姿がその想像に重なり、どちらがどちらの絵なのか分からなくなる。

しかしこれから行く先は、そんなメランコリアな冬が似合う大地ではなく、ヒンドゥーの聖なる南の大地。『人間は「質」ではなくて「量」で存在するところのよう』という友人の言葉がそこに重なる。

そうなったらこのメランコリアが失せてしまう。大切にこのままにしたい。だから僕は再びバッハのなかに身と心を沁み入らせる。
  
■夜のムンバイに到着
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by k_hankichi | 2014-11-29 09:55 | 街角・風物 | Trackback | Comments(3)

彷徨と鉄道と清張

みちのく迄は、いまはそれほど遠くないのだけれど、それでもここがみちのくなのだと思うだけで、たとえそれが仕事であろうとも、なにか一つの旅のような気がする。その帰りがけに読んだのは、『小説を、映画を、鉄道が走る』(川本三郎、集英社文庫)。

小説と鉄道というような話題だと、やはり松本清張が登場して、そしてそんなときに、友人とちょうど「紙吹雪の女」(『砂の器』に出てくる)のことについて遣り取りしていた。あまりの奇遇に驚く。川本さんのその章は次のようだった。

“ローカル線とバスで能登半島の奥へ奥へと旅してゆく。その平面的な「奥」への旅は、やがて犯人と思われる人物の隠された「過去」をさぐる旅と重なってゆく。松本清張のミステリでは、殺人はしばしば知られたくない「過去」を隠蔽するために行われる。『砂の器』の新進音楽家、和賀英良がそうだったように。現在と過去のあいだに段差のないフラットな現代と違って昭和三十年代まではまだ隠したい過去があった。”(「夜行列車の詩情と悲しみ」より)

僕らの生きる現代は、それほどに明瞭に平坦な世界なのだろうか。いや、そんなことはない。過去のあいだに段差がないフラットな時代、ということではなく、やはり、どのひとの私的時間のなかにも、超えようのない、そして大切に秘めやかに抱えている段差があるのではないのか。

小説を、映画を、鉄道が走る (集英社文庫)

川本 三郎 / 集英社

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by k_hankichi | 2014-11-28 00:32 | | Trackback | Comments(1)
関東も雨だったが、みちのくも雨。朝、曇天が低く垂れ込める。枯れ木と枯れ葉におおわれた景色は如何にも殺風景で、侘しさが漂う。

「今日ばかり 人も年寄れ 初時雨」

「木枯に 岩吹きとがる 杉間かな」

「三尺の 山も嵐の 木の葉哉」

そんな心持ちの朝だ。
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by k_hankichi | 2014-11-27 07:26 | 街角・風物 | Trackback | Comments(2)
食事をしていると、毎回、一度や二度は箸から食べこぼす。小さい頃から今まで中々治らない。お行儀がわるいわね、と直接的に或いは婉曲的に、言われることになる。

知らぬうちに上着の裾やら、ズボンの真ん中が汚れている。尚更、じぶんの不甲斐なさを度々に思い知る。結果、指摘されて誤魔化すのに長ける。

「とろろ蕎麦は、トロトロ過ぎだとこうなって服に垂れちゃうが、それくらいが旨い」
「銀杏の炒り方が不十分だぞ、殻を割るとき弾ける、何とかして」
「茶碗蒸しの蒸しかたが緩すぎ、おーい、こりゃスープ蒸しかい」
「ゼリー落ちた、何でこんなにスプーン小さいの」
「この天ぷら、旨いけど衣多いなあ、ゆえに汚くなる」
「ハンバーグがジューシーすぎ、だから汁、垂れた」
「このシャンパンのグラスおかしい、よぼう」
「リゾットがプチプチするほど熱いからハフハフしてて口から落ちた」
「寿司に醤油を着けるなんて食べ方がいけないんだ」
「シュークリームの中身が垂れる、こんなに入れなくてもなぁ、旨いけど」
「この染み、いつ着いた?、誰かに付けられたかな」

前身頃の中心±2cm、垂れ味処の男。今日もみちのくを目指す。
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by k_hankichi | 2014-11-26 19:40 | 一般 | Trackback | Comments(5)

小津映画の4番バッター

朝日新聞の日曜版で「小津安二郎がいた時代」というコラムが連載されている。斎藤博美による。今週は岡田菜莉子。〝三枚目の素質見抜く”という副題だ。確かに映画『秋日和』『秋刀魚の味』のなかで、小津は彼女に、ちょっと三枚目的な感じで笑いを導くところがあったなあと思いだした。

また、次のようなところには、さらに大きく頷いてしまった。

“あるとき、菜莉子は小津に尋ねた。「監督の作品に出演した俳優の中で、誰が4番バッターですか」。小津は迷うことなく「杉村春子」だと答えた。「4番がいなかれば野球はできない」。そして楽しそうに続けた。「お嬢さんは今は、トップバッターだね」。悪い気はしなかった。でも、と菜莉子はいう。「4番になるまでご一緒にお仕事がしたかったです」。”

小津の映画での杉村春子。ここが要所を押さえているとは知っていても、それを4番バッターだと称した小津の設計図にはやはり驚く。
  
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by k_hankichi | 2014-11-25 05:50 | 映画 | Trackback | Comments(2)
ミレー生誕200年だそうだ。彼はシューマンやショパンと、ほぼ同年代なのだということを、やっとわかった。そしてこの週末に、所用の前に三菱一号館美術館での『ボストン美術館 ミレー展』を観た。

ミレーといえば、「落穂拾い」ぐらいしか意識していなかったのだが、そういった僕のような素人にとっても、この画家の神髄がとてもよく理解できる構成の企画だった。

観終わったあと、一言でミレーとは何か、と問われれば、「秘められた表情に込められたダイナミズム」、とでもいおうか。

「種を蒔く人」の男の身体全体を使って、種をばら撒こうとする力。しかしその彼の表情は影に隠れて見えない。画家は、その彼の心を想い、その彼の孤独な心を想像しながら、敢えて描くことをしない。

夕暮れの河のほとりでの一シーンを描いた「洗濯女」。月も出ている更け行く薄暮に、女の表情は何も見えない。しかしそこに、疲労しきったなかにもその日の仕事をまっとうしようとする女たちの気持ちが伝わってくる。

「編み物のお稽古」という作品でもそうだ。彼女らはおしなべて俯いている。僕たちには気持ちの機微を見せない。それでいて、そこには伝わってくるものがある。

彼ら彼女らが影のなかで内包している表情、俯くなかに隠された気持ち。それをミレーは伝えたかったのだと、ようやっとわかった気がする。

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by k_hankichi | 2014-11-24 05:57 | 美術 | Trackback | Comments(4)
五味康祐の『人間の死にざま』は、死にざまの章が終わると(そのなかにはマーラーの死にざまについても書かれているのだけれど)、うって変って音楽評論になる。これは、そんじょそこらの音楽評論家のレベルを遥かに超えていた。まさに時代劇小説のなかで鋭利な刃物でスパッスパッと切りつけられるかのような、剣術武闘家的な迫真の評論だ。中国舞踊の変面のように斬新で快活な芥川賞作家だ。

そのなかで、次のような記載があって、なんとも興奮した。

“昭和二十八年ごろ、私は貧乏で無名の文学青年に変わらなかった。観念で大見得ばかり切っていたし、世俗的なことへは狷介をよそおいながら実は未練たっぷりで、すぐ女性に惚れ、片っ端からそんな女性と結ばれる情景を空想する底の、情念を持て余していた。そんな時、フィストラーリの凡そ情感に未練をとどめぬ然も美しい奏べを聴いたのである。毎度言うことながら、「音楽が鳴りだせばどの道、人は感情的になる。」(フルトヴェングラー)それをフィストラーリは容赦なく(クールに、ではなく)切るべき情感はいっさい切り捨て淡々と旋律を歌わせた。それが比類なく見事だった。実のところ、未練をとどめぬ樹幹のそういう切り捨て方を演奏に見たのは、ストラヴィンスキーが自作の『レイクス プログレス』を指揮したもの以外は私は知らない。
(中略)
未練なく情念を ― ハーモニイの余韻というべきものを ― 切り捨ててゆくフィストラーリの指揮ぶりに「音楽性が欠けている」とは夢おもえないし、むしろ凡百の指揮者より余っ程それは優美と私にはきこえるのだ。べームという老指揮者がいる、ベームに最初に失望したのはモーツァルトの『レクイエム』を聴いてだったが、近頃、『トリスタンとイゾルデ』を聴きなおし少しづつ腹が立っている。長生きしたというだけで何で名指揮者なのか、と思う。又先日、これはNHKのFMで何トカ・マタチッチ氏の『パルジファル』の第一幕への前奏曲を聴き、ホトホト匙を投げた。老人のなんというテンポののろさ。クナッツパーツブッシュのも悠長だったが、でもクナッツパーツブッシュの『パルジファル』には老いたるワグナーがいた。”(「私の好きな演奏家たち」より)

どうにも気になって調べ始めた。すると、アナトール・フィストラーリは1907年にウクライナのキエフに生まれて、イギリスのオーケストラを主に振ってきた指揮者だ。年齢的にはカラヤンと同じぐらい。五味さんは、そのカラヤンをこき下ろしているので、僕もおもわず嬉しくなったのだけれど、フィストラーリの演奏を聴いてみたくて仕方がなくなっていた。

そんななか、衝撃的な音をYoutubeで見つけてしまった。ナタン・ミルシテインと協演したブラームスのヴァイオリン協奏曲だ。オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団。1961年の収録。

僕は実をいうと、この協奏曲がこれまでどうも好きになれず、聴いているとどうもいらいらしてきて、虫唾が走ってくるのだった。べたばたと寄り添われてくることが嫌なのだ。

ところがどうだ、この演奏は。瑞々しく、しかも、凭れ合い感が一切ない。もったいぶったところ、しなだれかかってこられるような鬱陶しさが一切ない。パシッパシッとした感興に包まれる。竹を割ったようで、しかし冷たいということではない。なにかに開眼したかのような衝撃だ。

この鮮やかでしかも崇高な感覚は何なのだろう。この昂ぶりはしばらく続くような気がする。そしてこの指揮者のことを、もっともっと知りたくなった。

※年代の割には、良い音質の録音でもあるので、ヘッドホンで聴くことをお薦めする。

■第1楽章 その1 →http://youtu.be/Dou3EckbuVk

■第1楽章 その2 →http://youtu.be/Wp9Lr9gdkv8

■第2楽章 →http://youtu.be/38wjLz78feE

■第3楽章 →http://youtu.be/H7lRQdBDUos

  
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by k_hankichi | 2014-11-23 00:16 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
みちのくの地をふらふら歩いていて古書店を見つけた。小さな店だ。その店舗の半分は古本、そしてもう片方を使ってギターやウクレレ、弦、ギター用のアンプなどの楽器を売っている。ちょっと風変わりな立て付けだ。書棚を眺めてまず初めに目についたのは『聖子』(神田法子)。彼女のファンである(あった?)友人のことが頭をかすめて、思わず買おうかなと思ったが踏みとどまった。その代わりに目についたのが、五味康祐の『人間の死にざま』(新潮社)。

太宰論がまず面白かった。

“自分の文学、これほど大切なものは作家にはない。しかし、その為に(覚えずとも)人を殺してさて自分にどんな文学が書けているのか、そう自問したときの自己嫌悪、居堪れぬおもい、遣瀬なさが『道化の華』一連に見られる。精神分裂症状を呈して見受けられる。したがって太宰文学は、人を殺めたところから生み出されたものであり、それなくして書ける文体ではなかったことを我が身の「過失致死」に徽して私は知った、そう言ってきたのである。いちばんわるいのは、好きでもない女とカッコよく心中でもしようという精神の弱さである。やさしさ、ナイーブ、どう表現してみた所で三島由紀夫サイドでなら甘えとしか見えまい。もちろん、そんな弱さや甘えが太宰文学を創った。甘えているだけの文学青年ならゴマンといるのだ。太宰は己れのその甘さの為に結果、人を殺めた。そこからはじめて彼の文学ははじまった、これがゴマンといる文学青年との決定的な違いだろう。私はそう言いたい迄である。”(「山下奉文 ― 義のために」より)

僕の太宰観とは、違うのだけれど、それでもこの人の観点の明晰さには舌を巻く。最近は、新聞やら書籍やら評論などのさまざまな場で、人の気持ちに配慮して、とか、あるいは、自分を悪く言われないように、というような感じの自己防衛的な表現に多くかこまれている気がしていたから、こういう直截的な、あるいは直観にものを言わした表現に接すると、却って清々する。

この五味さんの本、最初の四分の一が本の題名通りの『人間の死にざま』のエッセイ集で、あとの四分の三が実はクラシック音楽評論だ(『愛の音楽』 ―西方の音―)。この評論というか、頑固クラッシック辛口批評もとても痛快で、みちのくの夜と、そこからの帰途の時間が、あっという間に過ぎ去るほどだった。

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人間の死にざま (1980年)

五味 康祐 / 新潮社

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by k_hankichi | 2014-11-22 00:12 | | Trackback | Comments(6)
東京駅の構内食堂もあらかた食べつくした感があると思っていたのだけれど、行っていなかった店があった。リーゾ・カノビエッタ(RISO CANOVIETTA)というリゾットの店のことだ。イタリア料理屋で〆に作ってもらうこともあるけれど、リゾットというのは固いのか柔らかいのか、何とも中途半端でいけないよなあ。しかも主食として出すという。洋風お茶漬けがメインディッシュというのは如何なものか。遠巻きにしておいた。

しかし、どうしても気になる。今週の出張の途中でとうとう訪れた。八重洲口の地下中央改札口を入ったすぐ脇で、店に一歩足を踏み入れれば、厨房を囲むようにL字型にカウンターがある。そこは女性客で埋め尽くされていた。な、なんと。オヤジはいないのか。しかし入ってしまった以上、武士に二言はない。奥へ奥へと通され、ちょうど空いている席に座らされた。

「トマトとモッツエッレラチーズのリゾット」、そして「メンチカツ」を注文。米から作るのだから時間がかかりそうだなあと思いながら小説片手に待っていると、ものの5~6分程度でお皿が運ばれてきた。意外だ。見ると取っ手が両側にある大ぶりのフライパンのなかにリゾットが平らに鎮座している。「鍋は熱いので触らないように」と説明される。トマトがほどよく砕け解け、南洋諸島の島々を上空から眺めたときの散らばり具合のように、整然と敷きこまれたご飯の間に点在する。そしてそこにチーズが混然一体となって、雲のように絡んでいる。

スプーンですくって、さっそく一口。熱っつ。はふはふとしながらも、噛んでいく。粒感がある。アルデンテなのだ。なんと心地よいものか。トマトの酸味とチーズのもつ塩味が見事に融和している。なんなのこのごはんの融解しそうでしていない、それそれどうして、この固さとこの旨さは何なのか。

目玉を白黒させながら食い進める。この粒をかみしめる音は自分の歯と骨にしか伝わっていない。そこはかとない振動。自分だけの音の世界。米粒のプチプチ感は、鍋と料理自体が持つ余熱でもって、時とともに少しづつ和らいでいく。この変化がまたよい。

だんだんと少なくなってくる。名残惜しい。おお、底のほうには若干のオリーヴオイルが染み出している。チーズの残渣が薄く残っている。これ、食べられるかな。こそげ落とすようにしてちょっと下品かと思いつつ口に入れる。またまた新しい味。

メンチカツのほうも、リゾットを食べている途中で出てくる。だいたいにおいてメンチカツというのは、部活帰りに肉屋の店先で、ちょっと紙にくるんでもらって、おばさんからソースを付けてもらって食べるのが一番美味いというのが相場なのだが、こいつは違った。白い美しいお皿の真ん中に、トマトソースが半ば滴り加減で覆われ、そこにパルメザンチーズが振りかかって鎮座している。

フォークで切り崩しながら食べることになっているよう(そのように店員から説明される)。切り崩し、口に運ぶ。なんじゃこりゃー。カラリと揚げられている。しかしその中身は天にも上りたくなるほどの、香ばしさと肉汁のジューシーさだ。「メンチカツ=肉屋店頭」という公式を根底から覆した。税込で320円しかしないこのメンチ。もはやこれだけでも一級料理です。

この店、このほかにもメニューは盛りだくさん。「魚介とカラスミのリゾット」「京野菜のリゾット」「チーズリゾット」「イロイロきのことポルチーニ茸のリゾット」「トマトソースのカポナータリゾット」などなど。自然派イタリアン「RISTORANTE CANOVIANO」の植竹隆政シェフという人がプロデュースしたというこのちょっと変わった店が、やみつきになりそうだ。

曰く、「リゾットを食わずして、イタリアンを語るべからず」

※この料理を写真に撮影して見せるということもできるのだけれども、味の神髄が伝わらないので、ショップカードだけを示す。
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by k_hankichi | 2014-11-21 00:17 | 食べ物 | Trackback | Comments(6)

音楽、小説、そして酒を愛する方々との空間です


by はんきち